新しい天と新しい地

チア・シード

黙示録21:1-5   


創世記を意識しているはずです。もちろん、イザヤの預言も踏まえていることでしょう。旧約の物語をすべて網羅して背負うかのような意気込みで、神からのメッセージを閉じる計画をもっていたのでしょうか。だから黙示録の末尾で、ここから取り去るな、ここに付け加えるなと念を押すのだと思われます。
 
個性的な黙示録ですが、当時は、いま私たちが見て感じるほどに異様な存在には見えなかったのではないでしょうか。後の教会からすると、二百年ほど後であっても、これは何だと見られたかもしれませんが、そのときはローマ帝国の傘下で正典化がなされていたという事情が加わっているせいかもしれません。元来のユダヤ文化からすればむしろ普通であった、と。
 
初めの世界は崩れ去り、地も海も変わります。そこへ、神の都、新しいエルサレムが降ってきます。神から与えられるということを表しているのかもしれません。キリストの花嫁としての教会がこのイメージに重なってきます。そんな描写で壮大な幻を見せてくれるというのは、まさにユダヤの文化、ユダヤの歴史を背景にしたものであったと言えるでしょう。
 
ユダヤ人の歴史の感覚から、この世界の行き着く果ての姿を、精一杯言葉で表そうとしています。文化の違いや時代の距離から、それは私たちには届きにくいといえば届きにくいものでしょう。それを私たちの尺度で説明してしまおうとする誘惑がどうしてもあります。何でも自分の言葉で説明して自分が納得したいだけの人間の性癖のなせる業でしょう。
 
このエルサレムは、かつての幕屋の概念をも含んでいます。神がそこに住みます。神の民となる人々がそこにいます。これは神の国です。涙は必要なく、悲しみは去ります。死すらもうないのだと言って、天国のイメージに近づいたとしても、芽生えた復活の概念とこれがどうつながるのか、もうひとつ判然としないものがあります。
 
かつてのもの、つまり私たちのいまが、ここで過ぎ去ります。ユダヤ人からすると、この過ぎ去ったものというのは、目の前に見えていると言われます。未来を背中に感じて、過去の方を向いている感覚があると言いますから、この時間意識は、未来が見えないままでも、その未来を思い描きながら生きているといった姿で想像できるかと思います。
 
見えない未来のために幻を思い、それを描く。預言の営みは、見えない未来を信頼しているところになされます。黙示録はここで、やっと新しい天と新しい地とが初めて現れたところです。幻とはいえ、ヨハネはまだその詳細に気づいていない段階です。大きな声を聞いただけの状態です。しかしそれは確かに神の声、神の言葉であったのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system