詩編の歌い方

チア・シード

詩編46:1-12   


アラモト調。気になります。フランシスコ会訳では「おとめらの声で」となっています。ということは、歌っているのはおとめらではないということでしょうか。神殿の聖歌隊に女性がいたとは考えにくいので、男が女のような声で歌うことが指定されているのかもしれません。もしかすると、少年なのでしょうか。
 
ルターの有名な讃美歌の基となった詩です。終始、戦いのにおいに包まれています。「万軍の主」とは、戦いに出て勝利をもたらす神を示す語で、ダビデがゴリアトに立ち向かう時にそう呼んだのが最初であるとされています。イザヤが多用したことも知られています。小国イスラエルがアッシリア軍に囲まれた様子を描いているとすれば、少年ダビデの状況にも似ています。ルターが教皇を取り巻く軍勢に囲まれたのも、まさにそうでありました。
 
恐れず、決して揺るがないその心は、主が共にいるという確信に基づくものでした。エデンの川やエゼキエルの幻の川が、豊かに地を潤し、祝福を与える情景をも描きます。それは黙示録にも受け継がれます。それを確信する自分は、騒ぎ立てる民族や国家をもものともしません。あらゆる戦いに終止符を打つ主の圧倒的な力を信頼し、その主が共にいるために、我ここに立つと言ったというルターの言葉も、発した当時は無謀にも聞こえたことでしょう。
 
信仰とは、傍から見ればありえないことを言っているようなものです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」と繰り返されるフレーズが、私たちの胸に響いてきます。アッシリア軍の包囲から奇跡的に救われたイスラエルの経験は、もしかすると守株の如くカミカゼを期待させ、後にエルサレムの無惨な滅亡を呼び寄せたことになるかもしれませんが、神は時に驚異の逆転勝利をもたらすことがあるという事実は示したのでした。
 
この歌を、低い男性の声で歌うのも力強いかもしれませんが、弱い小さな者を守り、そこに共にいる神を伝えるためにも、おとめのような声、恐らくはやはり少年の声で歌うことこそが、相応しかったと言えるのでしょう。その若い声は、いまは小さなこの民が、未来にはどうなっていくだろうかということにも思いを馳せる契機になるでしょう。詩編の歌声が、詩の内容をどんなふうに伝えるか、そこにまで私たちは心を寄せて味わうことができるのです。


Takapan
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