聖書の中央・冒頭・結末

チア・シード

詩編1:1-6 


一部の写本にはこの第1編が欠けており、編集者が後から加えたものではないかと考えられているそうです。詩編の冒頭を飾るに相応しい内容として掲げられたわけです。そこには、善人と悪人とを対比させるという、分かりやすい構図が見られ、誰しもが、この詩編をどのように読めばよいのかを誤解なく知ることができるようになっています。この詩編は、旧新約聖書のほぼ中央に位置する長大な巻となっており、その意味で聖書の要と理解することも可能ですが、その冒頭が、これです。
 
注目すべき最初の言葉は「幸い」です。口語訳がこれを後に追いやったのはもったいない気がします。まず「幸い」から始まるのです。次が「人」。例によってこれは「男」という語であるために反発する方もおありかと思いますが、とりあえずどうしようもありません。新共同訳で訳語としての「人」を2節にずらしてしまったのももったいない。
 
表現はいろいろありますが、要するに善人と悪人とついて語られます。最初は善人ですが、悪人の道が3つの段階で深まっていくのを味わうことができます。それは「歩く・立つ・座る」という語です。善人はこれをすべて拒否します。キリスト者は、キリストに従って歩み、キリストの道に立ちそこをキープし、そして安心してそこを居場所として座るものでありたいものです。
 
川と木の情景が描かれます。思い起こすのは、創世記2章。エデンから4つの川が流れ、命の木があった景色が、詩人の心に浮かんできているであろうことが容易に想像されます。また、新約からは黙示録22章にもこうした情景があります。新しい神の都には川があり、ほとりのは命の木があります。毎月それは実を結び、葉は薬用になるとあります。聖書全巻の最初と最後にある光景が、聖書の中央の詩編の看板に掲げられているという点を重視したいと思います。ユダヤ文学の特徴は、中央をハイライトとして、左右対称の構造に描くことを常としているからです。
 
悪人は、もみがらに喩えられます。ふだんは籾と紛れて区別がつかないようであっても、いざ風に当てれば飛んで行ってしまい、見事に峻別されてしまいます。神の審きによって、容易に見分けられてしまうということです。詩編35編にもありますし、預言者の書には幾度も登場する表現です。
 
また、その悪人についてはさらに、裁きと集い「堪えない」と訳されていますが、原語はシンプルに「立たない」。1節の「立つ」とは別の語ですが、その人が神の前に立つこと、そして認められるということ、それが悪人にはできないということを著しています。読み込んだ訳語だと言えるでしょう。
 
もちろんこれはヘブル語の聖書であり、イエス・キリストをそこに意識しているとは言えませんが、キリスト者はこうした中にもキリストを思うことが許されます。我が身を振り返りつつ、詩編を味わいたいと思います。但し、イエスは、同じ「幸い」から始まる言葉であっても、善人悪人の対比とは趣の異なる宣言を告げていました。分かりやすい詩編の対比を、安易に分かったつもりにならず、イエスの生涯を思い起こしつつ、何が幸いであることを問い続けたいと願います。


Takapan
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