ヒネマトーブにこめられたダビデの願い

チア・シード

詩編133:1-3   


ヒネマトーブ。イスラエル人はこれに曲をつけ、歌としました。世界中にこの短い歌は拡がり、私のような者にさえ伝えられました。ダビデによる都上りの歌だと題されていますが、ダビデ本人の作であるかどうかはよく分かりません。しかし、まさにダビデに重ねて、この詩を味わってみたいと思います。
 
「見よ」から詩は始まります。注目を促す語で、視覚的な表現をとりますが、必ずしも視覚だけを示しているわけではありません。私たちの心が、この「善い」ことへとフォーカスされます。善いこと、喜ばしいこと、それを知れ、というのです。何が善いのか。住むことだといいます。兄弟たちが共に平和に住んでいる。なにげないように聞こえるかもしれませんが、イスラエルの歴史を思い返すと、これは奇異なくらい、考えられないことだと分かります。
 
ダビデの生涯になぞらえてみましょう。羊を荒らす獣とも闘いました。サウルに召し出されたものの、槍を向けられ命を狙われました。敵なるペリシテの配下に忍ぶこともありました。息子たちの間で殺人がありました。息子に謀反を起こされ都を追い出され、あげくその息子と戦い死なすことにもなりました。晩年の色恋沙汰で有能な兵士を殺し、非難を浴びました。その生涯は、戦いの連続でした。イスラエルを平定してもなお、対外的な戦いがそう易々と止むことはありませんでした。
 
特に、子どもたちの間に平和を置くことができなかったことは、苦しかっただろうと思います。母親が異なることも一つの因でありましょうが、父親としてダビデが甘かったことも非常によく窺えます。サウル王への慎ましさを抱いていたダビデは、息子たちへもどこか引いていたように見えます。ダビデの故に神はその子孫を祝福するという約束を下さいましたが、ダビデ自身、その子の間に平和を見出せませんでした。王位継承においてさえ、殺し合いがなされたのです。
 
この詩には、豊かな恵みを象徴する油や、ユダには期待しづらい露という表現を以て示す幸福が描かれています。これらは、ソロモンの栄華に見られた財産や地位などとは違う次元のものです。確かにこれは、ダビデの切願であったのです。それが神の祝福であり、子孫へつながる神の守りからも理解できる、永遠の命というものなのでした。私たちは、届かないこの絶大な幸せを求めて、ヒネマトーブと歌い続ける必要が、きっとあるのです。


Takapan
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