嘆きを望みに

チア・シード

詩編130:1-8


深い淵の底。不気味な様相を帯びる言葉です。明らかに、絶望的な情況を示しています。山間部の多いイスラエルの地において、谷底、しかも水の底というのは、恐ろしいものに思えたに違いありません。罪を悔いる詩が詩編には七つあると言われます。6・32・38・51・102・130・143ですが、この6番目にこの130編が属しています。
 
いきなり、深い淵に詩人は陥っています。その理由は分かりません。それだけにいっそう重いものを感じます。また、読む者誰にでも、他人事とは思わせない力を持っているとも言えるでしょう。そして、いま辛い経験をしている人の心につながり、助け、慰める道をも拓いてくれることになることが期待されます。
 
私の声を聞いてください。悲痛な叫びがあります。私はいま嘆き祈っているのです。主が聞いてくださっているという確信がもてないかのようです。主が私を見ていてくださる、知っていてくださる、という信頼がもてないのです。その意味では、詩人には信仰が欠けているとも言えます。都上りの歌と呼ばれるものですが、エルサレム神殿にたどり着くまで、詩人は不安でならないのでしょう。
 
しかし、望みはもっています。希望があるのだと持ち直します。主は罪を赦してくださるからです。このことについての信頼は強いようです。義の神は、罪を蔑ろにすることはできません。イスラエルの詩人が、赦しを確信できるという背景が気になります。どうして望みが持てるのでしょうか。夜の見張りが朝を待ち焦がれるように、必ずそうなるという希望を握っているのです。
 
主を待っている。イスラエルの民は総じてこの待望の心を有しているのだといえます。都に上る歌という名は、まさにそこからきています。多くの人々が、巡礼の旅を共に歩み、その中で声を一つに合わせて歌う歌。エルサレムを目指して旅するというその有様は、キリスト者にとっても無縁でないばかりか、信仰の核心に触れるものであるとも言えるでしょう。
 
私たちが上る都は、まずはキリストの集会でありましょう。教会としての毎礼拝に向かう歩みです。自分の魂は苦悩に満ちているかもしれません。しかし、希望への展開が望まれており、それを主に訴えて歌います。他方また、天のエルサレムを目指す旅にも比せられると思われます。この地上で私たちは旅人です。永遠の都を目指す旅の途中にいま私たちはいるのです。
 
罪から私たちを贖う、つまり買い戻してくださる主の救いの約束を胸に、時に叫び、時に喜びながら、歩んでいきます。そのとき私たちは、せいぜい顔を上に向けようではありませんか。目指す行く先を見つめながら、共に主を賛美しながら、遅々とした歩みかもしれませんが、一歩一歩、進んでいこうではありませんか。


Takapan
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