女

チア・シード

箴言2:1-22 


聖書を信じる。聖書は神の言葉である。聖書は正しい。少々理解しづらいことがあっても、それに従おう。それが正しいというふうに、説明を考えていこう。とても信仰深いような捉え方ですが、罠が潜んでいます。自分の理解・解釈に対して、自ら権威づけをしているという点です。自分の読み取り方を正当化してしまっているのです。今回はいつもと違う調子でお話し致します。
 
箴言はまず知恵を持ち出しました。フランシスコ会訳の注ではそれを「地上的な真理を悟り、知識を深めることによって、神を知り神を畏れ敬うように人間を導くもの」と定義していました。その知恵を、父が子に教えます。子というのは息子です。男の親が男の子に諭しているという図式です。そこに、女は登場しません。聖書が書かれた文化は、しばしば男社会の論理・倫理によって、正邪を断じていることに気をつけてみましょう。
 
女には、そもそも善悪や正邪すら適用されないといったふうにも見えます。エバではなく、アダムにのみ罪が言い渡されたことも思い起こします。後見人がいないと女は存在を認められなかったかのようです。16節にある「よその女」と訳されている語は、フランシスコ会訳の注によると「姦通の女」を意味するといい、その訳では「他人の妻」とされています。それはまた「言葉巧みな見知らぬ女」であるともいいます。分かりやすい訳だと思います。
 
女は、15歳かそこらで結婚していました。自分の意思など関係なく、親が決めたままに、ひとつの財産のように扱われていたと言っても過言ではありません。その女が、もう少し年齢を重ねて、恋愛の情を抱くようになったら、それはもう姦通であり、許されざる罪悪とされてしまいます。忌まわしい行いであるとして死刑に処せられます。自らの意思なく結婚させられた女が、自らの感情が生まれたとき行動を起こせば、それは死罪となってしまいます。
 
女は、心をもつ人格だと扱われていません。その女と恋愛関係に陥ったら、命の道を外れるのだ、と父は息子に教えます。それは場合によっては、7章に生々しく描かれているような娼婦めいたものでありうるかもしれません。しかし、女の人生は、決められた結婚の中に恋愛心を費やすしかなく、従い尽くさなければ極刑しかないということで、よいのかどうか。もちろん男にしても、身分ある者は政略結婚が当然かもしれないし、結婚観自体が私たちとは違いすぎるとも言えるのですが、それにしても、女はこれではモノに過ぎません。
 
しかも、男社会の論理はこの情況を、神と人間との契約を破る不貞行為であるとし、背信のシンボルとして描き、厳しく戒めてきました。そんな女は忌まわしいものであり、男がそれに近づけば神に逆らう者となる、という言い方で責めます。また、エステル記でも、男のメンツのために、王の招きに応じなかった王妃が捨てられた場面から始まっていました。
 
この解釈の歴史をキリスト教も受け継いできました。けれども、イエスは、姦通の女を罪に定めず、サマリヤの女に真の礼拝を語り、罪悔いる女に脚を洗わせ、マグダラのマリアを抱きしめんばかりに大切に扱いました。私たちは、どちらに従うとよいのでしょうか。というより、この問いそのものが、男社会の問いなのではないか、というところから始めなければならないのです。


Takapan
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