謎のフィレモン書への想像物語

チア・シード

フィレモン4-20   


小編ですし、極めてプライベートな内容ですが、パウロ自身の言葉であるものとして疑われていない書簡です。教理的なものはないと言えます。全くの私信なのですが、果たしてパウロは、こうした書簡もかなり書き送っていたのではないかと想像させます。教理的な内容のものはよく保存されましたが、私信はそこまで大切にされなかった、とも見られるからです。
 
獄中から「喜べ」と繰り返したフィリピ書にも、信仰生活の細やかな心配や指示が溢れていましたが、フィレモン書にもそうした心が潜んでいるようにも感じられます。あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものになるように、と祈ります。どんな意図があるのか、当人たちでない私たちには、判然としない部分があり、いろいろ議論があるようです。
 
パウロは他の手紙でも、額面通りに受け止めてはならないような言い方をすることがあります。つまり皮肉をこめて書いていると、いわば正反対の思いを口に出している、ということがあるからです。このフィレモン書も、もしかすると穿った見方をすべきなのかもしれません。果たしてこの社交辞令をそのままに理解してよいのか、私たちには見抜けません。
 
この手紙自体、一種の脅しのようにも読めるのです。なんだったらオネシモを送り返そうか、しかしそんなことをさせてみろ、ただでは済まないぞ、と。すでにこの奴隷オネシモは、パウロにとり良き手足となって働いています。伝説的に、後の司教になったという見解もありますが、定かではありません。本当にオネシモは、フィレモンの許に送り返されたのでしょうか。フィレモン自身、相当な怒りを以てパウロに言い寄ってきたようにも窺えます。
 
オネシモが盗みをはたらいて脱走してきた、と私たちはよく耳にしますが、書簡そのものにそう書いてあるようには思えません。実に様々な空想を呼ぶ書簡であり、一概にこうなのですと決めつけることはできない、ということしか言えないような気がします。フィレモンからの言いがかりに対してパウロが宥めているような図式すら感じられるのですが、皆さまはどう想像なさるでしょうか。
 
この手紙は、パウロ自身が筆をとって書いている、と記されているのも特徴的です。とくに長い書簡は、間違いなく口述筆記でした。短いから自身の手によるのか、はたまた獄中で結局自分で書くよりほか仕方がなかったのか。またそのときオネシモはどうしていたのか、あらゆる情況設定が謎となっています。ただ、パウロがしきりに「ゆるし」を願っている点を私たちは受け止めてみたいと思います。
 
奴隷制度そのものを認めている、とパウロを批判する人もいますが、それは無理な話です。現代の私たちが奴隷制度を脱している、と果たして言えるのかどうかさえ、私は疑問に感じます。過労を強いられている労働者は、もしかするとかつての奴隷よりも虐げられているとも思われます。資本家のような立場のフィレモンが自己中心的な要求を突きつけてきたのに対して、パウロがそれを諫めているのだとしたら、現代に活かす途もあるだろうと考えるのです。


Takapan
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