牢獄のパウロを脅かす者

チア・シード

フィリピ1:27-30   


執筆環境は、牢獄であっただろうと言われています。その場所については諸説ある中で曖昧さはありますが、牢獄だという点は疑われていません。そのときパウロは、生命の覚悟さえあったと思しき状態で書いた手紙の中で、さかんに「喜べ」と訴えています。読むほうも少し切なくなります。
 
そして送り先のフィリピ教会もまた、決して恵まれた状況ではなかったように思われます。辛い状態のパウロであるからこそ、慰められるということがあるのかもしれません。一つの心でいるだろうあなたがたのことだから、パウロの思いもまたそれに添えて一つとなっているよ、と呼びかけます。戦いは共通だ、共に労しているのだ、と寄り添います。
 
しかし、反対者がいます。まさに対立する側にある者、というような言い方ですが、そこにどんと居座り、不動の敵が意識されます。投獄した者たち、迫害者など具体的なイメージをパウロは描いているに違いないのですが、その存在の故にまた、苦しみというプレゼントを神から恵み与えられ、それにより一層キリストを信頼し近づくことができる、という驚くべき見方を提供しています。
 
反対者などはどうせ亡びるのだ、というような言いぶりですから、どこか抽象的なサタンをターゲットに言っているのではない、とここでは考えておきます。私たちも、誰か特定の人を悪し様に裁くような言い方は控えたいし、人を憎むのはいないと言いもしますが、本当は具体的な敵をちゃんと掲げているというのが通例ではないでしょうか。
 
私たちにも反対勢力があり、襲いかかってきています。感じていませんか。そう、妙に政治権力を敵として掲げて、それに対して陰で悪口をたたくことでガス抜きだけをしているようなあり方はありがちです。本当に政治権力を敵視するならば、行動しないと意味がないのに、陰口を言って自分は正義を言っているとほくそ笑むような態度がないか、という反省です。
 
私たちは、真に反対者なるものを見定めて、対応しているのではないのかもしれません。パウロはしかし分かっています。だから共に力を合わせて戦おうとフィリピの教会に促しているわけです。私たちは誰かとここまではっきり言って戦っているでしょうか。獄というあり方は、象徴的に捉えれば、この世界で一定の拘束の中にいる私たちの姿とも言えましょう。
 
私たちは地上につながれているままでは、苦しみもあり不自由があり、逃れられないものとしてまとわりついて仕方がない中にあります。仏教はこの「苦」を最大の問題として、知恵を築きました。キリストはこの苦をも乗り越えます。むしろ「死」こそ最大の敵だと見ます。生物学的な死とは限りません。体も魂も死を超えて生きる勝利を神が与えます。

Takapan
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