奇蹟を止めるもの

チア・シード

マタイ13:53-58


イエスの奇蹟を止める方法があります。不信です。信頼の関係が壊れているところでは、いのちの出来事が生じないのです。それは私たちも日常的に経験することでしょう。一旦信頼関係がなくなれば、何事もその人とやってはいけなくなります。だからカントは、信頼を壊す嘘というものを敵視しました。
 
また、奇蹟ができないということで、神の全能性を議論する人もいるかと思いますが、不信仰な者でも誰でも救い差別をしない神であると、そもそも神の存在意義すら失われてしまいます。神の救いの計画については、人はすべてを知ることはありませんが、ならばなおさら、神が奇蹟のできない場合がある、と決めつけるのはなおさらよろしくないでしょう。
 
スポーツ選手は、観衆の応援が力になる、といいます。科学的に捉えれば、応援が活躍させたり良い演技をさせたりするはずがありません。でも、それは確かにあります。信じられているという思いを抱くことができたら、やる気を生み出すことは間違いありません。信頼や期待の心が集まるところには、奇蹟すら起こって不思議ではないのです。
 
イエスは奇蹟ができませんでした。イエスにやる気がなかった、と言いたいわけではありません。マタイですから天の国というのは神の国のことですが、これについて様々な角度から弟子たちに語ってきました。弟子の権威を掲げたいマタイですから、これで弟子たちは免許皆伝というふうに描いています。そしてイエスの故郷ナザレへと入ってきたのでした。
 
神の支配や神の権能の及ぶところについて教えを導いてきたイエスが、神の力を揮えなくなってしまったのです。これは深刻です。語る場所は会堂。「このような知恵と奇跡を行う力」と驚いた人々は、今目の前で語っているその知恵と、これまで話で聞いてきたダイナマイト的なパワーのことで、これらはあの大工の息子が得るなんてことがあるんだろうか、と訝しく呟くのでした。
 
確かに語る知恵は、ラビと呼ばれるくらいのことはあると思われているかのようです。しかし人々は、マリアの出産の経緯を悪く噂していたのか、また、だからこそ父親は名前で呼ばれていないのか、あるいはもう存命中でなかったからなのか、そして兄弟や姉妹を知り尽くした近所のオープンな人間関係の中で、その知恵すら、いったいどうやって、と信頼感とは対極的な、不信感丸出しの話をもやもやとした空気の中で、あてこすりのように噂するのです。
 
イエスのことを、大工の息子と人々は呼びました。大工と訳されている語は、日本の大工とは違います。むしろ家造り職人として、内装や家具なども担当していたことでしょう。詩編118編からの引用として、福音書に幾度も引用される、家造りらの捨てた石が 隅の頭石になった、という内容が思い起こされます。ヨセフの職業がそれでした。ヨセフが捨てたというのは短絡的過ぎますが、イエスとのつながりが、さりげなく描かれているようには見えないでしょうか。
 
人々はイエスに躓いたのです。イエスは敬われませんでした。それは家族の中ででもそうだというかのように記されています。表現だけのことかもしれませんが、もしかすると、イエスは兄弟家族の間でも、信頼関係の中になかったのかもしれません。とにかく、群衆に対して力を発揮できなかったというのは、能力的な問題ではなく、信頼の問題でありました。
 
最後に「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と記されています。そこというのはナザレのこと。よく見ると、全くしなかったわけではないようです。そう多くはなかった、というのですから。どんな状況の中でも、神がすべてに背を向けるということはありません。イエスは困難な時代の中で、いまも奇蹟を起こしています。たとえ私たちが気づいていなかったとしても。


Takapan
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