現代人が描かれていないか

チア・シード

マラキ3:13-21   


主を知らない者ではない。主を神として認めている。しかし、そこにはひどい言葉があるといいます。イスラエルの状況をそのように批判したマラキですが、しかし現代にも適用できないでしょうか。人間たちは、何がひどいのかの自覚すらありません。当たり前のことを自分たちは言っているだけだという顔で、自分の正しさを主張するのです。
 
それでいて、いやそれだから、戒めを堅く守り、慎み深く宗教の規定に従ったからと言って何にもならない意味のなさをぼやいています。しかも世の中には悪いことをした奴が神の罰を受けるでもなく幸福そうな生活を享楽しているなんぞと口にします。実はこれは、正義を実行しない神に不満をぶちまけているようなものです。クリスチャンたる者、こうした事を考えたことはありますまいね。実際いつもそういう思いが心を占めているのでは。
 
主は、主を畏れ敬う者たちを宝だと見ています。高価で貴い存在です。愛される価値のない人間どもではありますが、主はこよなく愛しています。イスラエルも宝の民とかつて呼ばれました。いま神はすべての人を同様には扱うことはしません。主の御名を心に抱く人々の名は、記録の書に記されています。古代帝国では裁判記録を指すとも言われますが、それならなおさら、神の審きが刻々と迫っている意識をもつ必要があるでしょう。
 
神の心には明確な審きの基準があるはずです。だからこの神を信頼するべし。神への信頼をなくしたり、揺るがせていたりすることへの警告が示されます。世が華やかになり栄えていると私たちは思っています。先進国という名で搾取の恩恵により贅沢を謳歌しているのではないでしょうか。それなのに自分はキリストにあるのだなどと口で宣伝しても、内心奉仕は大変だよとか実は説教は眠くて聞いていないとか思ってへらへらとしていたら、ここに描かれているのと全く同じです。
 
「そのとき」と指摘された時があります。「その日」と言われることもあります。それは確かに来ます。その時に滅びる者がいて、燃え尽くされるわらである、あるいは風に飛ばされる籾殻として喩えられることもあります。しかし、とことん神に従い忠実である者は、輝く太陽の光の中にあります。そして燃え尽きようとするわらを踏みつける役を果たします。
 
人間の判断でそうするのではありません。神のなさがままに神のしもべとして喜んで仕え、天使のように神の命令を実行するような者となるのです。自ら喜びに見たされ、仲間たちの中でうつむく者の心を癒すことでしょう。マラキは、先導者エリヤがやがて来ることを告げ、その次にいよいよメシアが訪れることを待つことになります。私たちはそれをもうすでに迎えました。しかし、まだこれから待つべきメシア像があるでしょう。預言者の警告は、決して過去の出来事ではないのです。


Takapan
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