ルカ6章に見るひとつの核心

チア・シード

ルカ6:43-45


ルカ6章は注目すべき箇所だと思っています。20節からは平地の説教などとも呼ばれ、マタイの山上の説教と比較される箇所です。量的にはマタイよりぐっと少ないのですが、凝縮された内容で、マタイにある説教の中でも何が大切だと教会が捉えていたのかが窺えるようにも見えます。6章の初めから見ると、安息日の問題から12人の選出、特に癒しを求めて夥しい人々が身を寄せてきたことが描かれています。
 
今回は木と実の良し悪し、人と倉の物の良し悪しが比較されているところに注目しました。これらはすべて単数形の語が用いられています。それは一つだけだというよりも、何事も皆一つの同じことなのだという伝え方をしているように見えます。ここで複数形で示されているものは、茨だけです。「実」ですら単数形なので、いろいろな種類があるというよりも、とにかく「実」というものが現れることに注目しているものと思われます。
 
木と実は、人とその倉すなわち心から出してくる物とのメタファーでありますが、その「良し悪し」の語は原語ではそれぞれ違っています。木と実の場合は、物としての美しさや完成度の良し悪しであり、人の場合は邪悪などの精神的な善悪に傾いた語が使われています。邦訳の多くは、良いほうは「良・善」で区別できても、「悪」のほうは同じ表現しか取れないでいます。日本語ではこの悪は区別しづらいのでしょう。
 
ルカの描くイエスは、結局私たちの心から何が出てくるか、そちらを問題としています。それは道徳的に、元来的に言うならば律法的にどうなのか、という意味ではありません。マタイと違ってルカは、異邦人として、律法との関わりを深刻に考えることを避けることができるのです。ルカの思い描く善悪は、この平地の説教でイエスが語ってきたことであったに違いありません。
 
そこで、イエスは異邦人たる私に問いかけます。安息日規定よりも命を救うことの方を、重視できるのか。弱者に神の幸いがもたらされることを信じるか。敵さえも愛することができるのか。人を裁くことなく赦すことがおまえにできるのか。しかもこの実のたとえの次に、口先だけではなく実際に実行できるかどうかが大切なのだと告げて、この小さな説教の場面をルカは閉じます。
 
もとより、善人と悪人という峻別をルカは進めているのではないはずです。ルカにとり、小さくされた人々が自らの罪を悔い改めることにより、神に見出され、救いの恵みに与るという図式があります。裁く思いに支配されている者が、義と認められることはないのです。この一連の説教を踏まえてこそ、善悪のメタファーを読み取らなければなりません。赦しの心からこそ、善いものが外へもたらされるのです。
 
ルカがユダヤ文化のレトリックを踏襲しているかどうかは分かりませんが、対称形の中で叙述されるユダヤの伝統を、もしもここに当てはめることができたとすると、それなりに読めるようにも見受けられます。そのとき、メインと扱われるこの説教の中心は中央部にあるわけですが、そこには「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6:36)と命じられています。
 
何をせよこれをせよというのではなく、憐れみ深い者となることは、いっそう困難なことです。私たちが自分の心から善きものを出す、あるいは良い実を結ぶというためには、こんなにも困難な条件が規定されていました。しかし、ひとつのメルクマールがあることはヒントとして与えられています。口からあふれ出るものが何か、ということです。私たちは、自分の口から出ていくものに、まず気を配るという生き方が課題とされているように捉えましょうか。この命令は、私に個人的に与えられた神のことばでもありました。


Takapan
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