15章からの完結としてのザアカイ

チア・シード

ルカ19:1-10   


子どもたちにも大人気のザアカイのお話。大人も、つい目を細めて見てしまいます。場所はエリコ。ここまで、ルカの描くイエスは、富が救いに役立つことはない、と告げてきました。むしろ富は手放せ、と。マルコもマタイも取り上げているエピソードを並べてきました。ルカは、盲人の目を開ける記事を、エリコに入る前に設定し直すことまでして、独自にザアカイの記事を、エリコに入ったところに置きました。
 
15章では、罪人の悔い改めをテーマに、読者への選択の迫りを果たしたルカですが、そのときには、徴税人と罪人がイエスに近寄って来て話を聞いていたという前提がその発端にありました。話を聞いていただけの徴税人が、このエリコという、ルカのイエスがひたすら目指していたエルサレム直前にステージにおいて、イエスを見たいと積極的に行動したというふうに、このザアカイの物語を見てみたいと思います。
 
ザアカイはなんとも個性的です。木に登るというのは、大の男のすることではありませんでした。恥も外聞もありません。徴税人の頭であるという身分であるだけで、下手をすると袋叩きに遭いかねない存在でしたから、イエスを見たいと木に登ったのもやむなしということなのでしょうか。
 
イエス、それは誰であるのか、を見ようとした。原文はこのような調子で綴られています。「ある」という語がはっきりと出されています。ザアカイは、イエスのことを聞き知っていました。しかし、自分の目で見たかった。「ある」者イエスを目撃したかった。その意味では弟子が置かれていた環境を、強く自ら求めたことにもなるでしょう。強い求めがここにあります。近寄って聞いていたのではなく、見たいという熱意から、考えられないような行動を起こしたのです。
 
高いところにいるのはよくない。すぐに降りて来なさい。イエスはザアカイに呼びかけました。人は、神よりも高く位置しようとしてはいけないから降りて来なさい、とでも言いたげに。しかし考えてみれば、そのイエスこそ、高い高いところから、罪に染まった人間の低い地に降りてきた方でした。イエスは食事を共にするという、仲間宣言をしたばかりでなく、家に泊まると言いました。ザアカイの心にイエスは滞ることを告げたのです。いますぐ来ればそうするから、と。
 
ザアカイはそれを聞いて、立ち上がりました。あるいはこれを復活させられた、と重ねて見ることも可能です。だから、ここに救いが来たのでした。個人に、そしておそらくその家に。ここにはアブラハムの子があると言います。石ころから作られたのではない、肉の心がここにあると言うのです。失われていたイスラエルの一人の罪人が、悔い改めました。宴会が開かれるに相応しい出来事が実現しました。こうして、ルカの15章からのテーマが完結に至りました。さあ、ザアカイに倣い、いますぐに、イエスのところに呼ばれて行動する者となりますか。


Takapan
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