弟子たちに示す神の国

チア・シード

ルカ12:22-34   


マタイと比較することでそれぞれの福音書の特色を知る読み方もできますが、今はルカのイエスの語りに集中します。ここからイエスに出会いたいと思います。明日の命さえ自分の思いのままに計算している愚かな金持ちについて触れた直後に、イエスは「だから」とつなぎ、「その命のことだが」とでもいうようにこの話題に入っています。
 
衣食に心を奪われる必要はない、と言います。衣食の先に命があり、体があります。体も重んじられています。体も広義の命に含まれているのでしょう。ルカのイエスは、カラスをクローズアップします。汚れた鳥を代表させることで、一般の鳥よりもさらに価値ある人間の立場を際立たせているかのようです。そのようにして、思い悩むよりも父を信頼して、恐れることなく進むのだと諭します。
 
悩むことか寿命を、あるいは背丈を伸ばすことになりはしない、と言うのですが、この語はどちらにも取れることから、もしかすると掛詞となっているのかもしれません。野の花への装いが神にはあります。身近な、見えるもの・手の届くものを題材にイエスは語りますが、それは一般民衆に向けての様子であるように見えつつも、実はルカでは明確に弟子たちに向けてこの言葉が語られた、としています。
 
マタイの時の印象で、たとえというのは、意味を解しない一般民衆のためにイエスが用いたという前提で私たちは聞いてしまいますが、ここでは弟子たち相手です。イエスに出会い、イエスに従う旅に出ているクリスチャンたちにこそ、神の国を求めよと説き聞かせているのです。そしてこの話に続いて、腰に帯を締め目を覚ましているように忠告を与えています。
 
ご丁寧に、ペトロを使ってこの教えが弟子のためか人々のためかと確認させてまで、ルカはこれが弟子たちのためだとイエスに言わせているのです。そして弟子たちは管理人であるのだ、として、そのためのメッセージであることを明確にします。神の国即ち神の支配の知らせは、従う弟子たちへの知らせであり、弟子たちはイエスの使臣として働くよう任じられているというのでしょうか。
 
いまその弟子たちは小さな群れです。大帝国に睨まれて、またイエスが闘った宗教勢力に狙われている、風前の灯火のような組織です。ルカがイエスの後の教会の姿をここに反映させていることは明らかです。この世の富には無縁の弟子たちです。そこに心が留まればすっかり施して神の国に備えよというのは、弟子たちの中でも、ルカを取り巻く富裕層へのメッセージであったかもしれませんが、教会組織を意識しており、教会にいる弟子たちがこれを受け止めるように描いている点も弁えておく必要があるでしょう。


Takapan
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