エレミヤの新しい契約

チア・シード

エレミヤ31:27-34   


エレミヤの経験と筆記順との不揃いから、いつエレミヤに与えられたのか不確かなことが、エレミヤの預言には多い。イスラエルは回復する、これがここでの主眼です。しかし単に再び国が興るぞなどと言っても、空虚にしか聞こえないでしょう。旧約の中でどうしてここが注目されるのか、それは新しい契約が宣言されているからにほかなりません  
人も獣も増えると預言されます。このことは、種蒔きという比喩で表現されるのが面白いものです。かつて主は滅ぼすことしか決めようとしませんでしたが、いま再生が図られるのです。従来先祖の罪が子孫へ及ぶという常識があったのですが、エレミヤは修正して、人を死へと追いやるのは、自分のなす不正であって、ほかの何によるのでもありません。
 
新共同訳はこのことを、自分の「罪」で死ぬと訳しているのは誤解を招くかもしれません。不法行為のことを意味する語だからです。先祖の業についてそうなのですが、指導者の悪により国の民までダメージを受けるのだという図式からも、人を解放します。新しい契約は、いまの私たちから見ても驚くほど、近代的な側面を有するのです。
 
興味が沸くのは、古代から中世の欧州の学者たちがこれをどう捉えていたか、ということです。個人主義的なこの発想は、その頃の常識的な理解や考え方を、すでに超えていたのではないでしょうか。特に旧約聖書の解釈史は、もしかするとキリスト教史の歪みや汚点の因を探るのに相応しい研究対象であるかもしれません。
 
出エジプト記にある契約はイスラエルの民が一旦否定し破棄してしまいました。しかしここで更新されたエレミヤの契約は、石の板や律法の巻物に刻まれた、文字による契約ではなく、人の心の中にいま刻まれるものです。もはや新約と読んでも差し支えないような世界が見えてきます。新しい霊が、一人ひとり個別に神が出会ってきて、新しい出来事をその場その場で生き始めさせてくれます。
 
イエスが福音を新しい形で展開するとき、このエレミヤのもたらす契約を頭においていなかった、とするほうが不自然でしょう。神と民は有機的に結ばれます。主を知れ、などと強制的であるかのように同胞に迫る必要はありません。主を体験し、主と出会うところに、不正や罪の行いは赦されるに至るという結果がもたられるのです。


Takapan
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