呪いと祝福

チア・シード

エレミヤ17:5-8


申命記11章に、律法を守り行うかどうかで、祝福と呪いを主が置くということが対照的に示されています。ソロモンが神殿建立の際に祈ったときは、呪いはありませんでしたが、祝福をひたすら神に求めていました。後にソロモンが呪いを背負うことになることを考えさせる祈りです。祝福がまず語られ、さもなくば、と呪いが後から提示されるのが通常のスタイルでしたが、エレミヤはここで、その順序を逆転します。
 
エレミヤは、エルサレムの陥落をまず告げます。実際にその様子を目の当たりにし、エルサレムを去る経験をしているエレミヤです。イスラエルの民の罪を過去のものとして指摘するだけでなく、いままさにその惨状を体験させられているといえます。思わず、呪いが先行しているのでしょうか。
 
エジプトを頼る政策は崩壊する。エレミヤは主張し続けてきました。人間の知恵や力を頼りにすることの無力さと愚かさを嘆きます。民の、特に為政者の心は、主から離れ去っているではないか。それは、雨のない不毛の地で、枯れる木そのものに比せられます。他方、主に信頼する者は祝福されるといいます。これは、神を信じるといった曖昧な表現ではありません。主を拠り所とする、とはっきり述べています。
 
人間を頼みとしない。それは、常識的にはありえないことかもしれません。人が考え、人が決め、人が支配することなくして、人の世があり得るでしょうか。見える世界の外に根拠を置く生き方なんぞが果たしてあるのでしょうか。見えないものを第一として頼るということでよいのでしょうか。現代社会では考えられないエレミヤの主張です。
 
エレミヤは祝福を後回しにしました。これをいま、祝福をメインにするためだと受け止めたいと思います。かつての律法の但し書き的な呪いは、後に書かれただけに、実のところ神は祝福したかったのに、イスラエルが呪いを身に受けることになるという事態を表現していたと理解できます。しかしエレミヤにとり、呪いの現実の仕打ちを受ける中で、神は祝福を備えているのだと言いたい、またそう神から言葉を預かっている、と理解したいのです。
 
枯れる木のように喩えられた人間は、乾ききった大地において水のほとりに植わり潤い、実を結ぶのです。水は命、命の水というものが神からもたらされます。活ける水の川が流れて、いのちとなる。霊と水と血とで証しされたキリストの業により、私たちは、呪いを越えて、祝福を受けるようになりました。エレミヤはこの箇所の後にも、イスラエルに対する嘆きを続けるのですが、その中で立つ自分と主との関係をしっかりと見つめます。現代のキリスト者の生き方のモデルとなりはしないでしょうか。


Takapan
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