呼びかけに対する応答

チア・シード

ヨナ1:1-10


ヨナ書は子どもたちにも人気です。物語としても楽しめます。この一連の内容が史実なのかどうかはともかくとして、ヨナという預言者はいたように見受けられます。物語は、主の言葉がいきなり臨むところから始まります。主が主体であり、突然呼ばれるのです。新共同訳で「さあ」と訳されている最初の言葉は、「立って」という言い回しです。行動を自ら起こすときの語です。
 
ニネベはアッシリア帝国のおそらく首都。その悪が満ちたので「呼びかけよ」とヨナは主から命じられます。よく見ると、滅びるぞとは書かれておらず、呼びかけるだけしか命じられていません。意味は滅びるということなのでしょうが、ヨナに託されたのはさしあたり警告です。何のための警告でしょう。このままでは滅びるぞ、と悔改めを勧めるのでしょうか。もし悔い改めたなら、神は赦すことになるはずです。後で分かるように、ヨナもこの推論を当然していました。
 
いわば敵国。イスラエルの敵国は滅べばいい。自分は悔い改めよと呼びかけるのか。自分が仕事を完遂したら、敵国が救われることになるではないか。逃げ出したのも尤もだと私は思います。「主から逃れようと」が二度繰り返されます。主からの言葉にそのまま従うのではなく、自分の頭で考えている証拠です。それが果たして不信仰となるのか。主は、そんなヨナを、首根っこを捕まえるようにして、主の計画の路線に連れ戻し放り込みます。
 
私たちも呼びかけられているでしょうか。「立って、ニネベへ叫べ」と命じられているのは私たちのはずです。この乱れた世、お粗末な政治、欲望ばかりの経済へ、悪が満ちた、と呼びかけるのでしょうか。しかし、私は思います。ニネベとは、自分自身のことである、と。わが魂よ、と自らに向けて、呼びかけよ、と命じられているのではないか、と。
 
主から逃れようとしたヨナでしたが、それはもちろんできないことです。荒海の船上で、船長がヨナに「起きよ」と呼びかけます。呼びかけるべきヨナが呼びかけられています。預言者はつねにこのような精神的状況にあるのです。船上では、異なる神々の名も呼ばれていましか。その中でヨナが呼ぶべきは、天地創造の主の名でした。私たちが起きて呼ぶのは主の名でしかありません。
 
神意を示すくじがヨナを全人の前に引き出します。キリスト者も神の導きで引き出されるでしょう。イエスはさらに、引き渡されたのでした。その場でヨナは、アイデンティティを問われました。行く先・目的は何か。どこから来たのか。国はどこか。どんな民か。ヨナの堂々とした回答は、人々に畏敬の念を起こさせたことでしょう。主なる神の特別さが伝わったことだろうと思います。
 
私たちはこの問いを投げかけられたとき、自分の中から答えをスムーズに呼び出すことができるでしょうか。呼びかけるために立てられた私たちが、呼びかけられて、答えられるでしょうか。目的はイエス・キリストのところです。罪の中から来ましたが、神の国の市民権を与えられ、やがて完全にそこに入れて戴けます。そして、キリストにある民と共にいます。このような答えは、どこか主から逃げながらであるかもしれませんが、できれば主の懐に安心の内に抱かれて答えたいものです。


Takapan
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