ヨブへの非難

チア・シード

ヨブ40:1-14  


創造の秩序に則って、主はヨブに神の業を覚らせました。その中で「ヨブに答えて」とあるのは不自然です。ヨブがここで尋ねたのではないからです。但し、主がここで自ら一呼吸置いてから語り始めたとするならば、まだ分からないわけではないのですが、文書の上で操作がなされたと見る研究者もいることでしょう。しかし私たちは内容に向かいます。
 
言い争う者よ、非難する者よ、とヨブに主は呼びかけます。さあ教えてみよ、答えるがいい、と問い誘います。文句があるなら言ってみろ、という感じにも見えます。ヨブは、友人たちに向かって、身の潔白を訴えてきました。友人たちは、隠れた罪があるのだろう、罪があるから不幸になったのだ、と堅く信じています。それがヨブを痛めつけていることに、どうやら気づきません。
 
ヨブはそれに懸命に答えてきました。それが時に、全能の神がこうしたのだと踏み込むことにもなったのでしょう。こうしたあたりは、単純にあるいは論理的にまとめてしまうことはできないと思います。ヨブ記は数理的な説明を施している記録ではないからです。教訓話などではないからです。
 
主は、サタンと約束をして、ヨブの謂れのない不幸な仕打ちを容認してしまいました。ヨブにとり、これはどうしても理不尽です。命を失った子どもたちはどうなったのか、それは今後ヨブが如何に財産や子孫を回復されたとしても、戻ってくることのない魂です。人の目に、この神の仕打は余りに冷たいものです。けれどもヨブは、主の釣り出しには応じず、もう口をつぐみますとおとなしく引き下がるのです。
 
そこで再び主は嵐の中から答えます。嵐というか、つむじ風というか、何かしら目まぐるしく動いている風をイメージさせます。さて、神のほうが悪いのだろうか。おまえはいつから神になったのだ。神そのようにヨブに問います。ほんとうに神のようなことができるならやってみよ、突き放すように迫ります。そうして主は、ベヘモットやレビヤタンといった大きな芸出的な美をもつ被造物を例示したために、これが決定的となってヨブは完全に参ってしまいます。
 
ヨブのように義人と呼ばれる者であっても、理由なき処遇により不幸を畳み掛けられてくることがありました。そのとき、ヨブでさえ、自らを神とするかのような心の萌芽がどうやら見え隠れしたということでしょうか。神はそこはそれとして厳しく扱われます。8-13節は、生温い私たちの精神が、高慢にも日常的に実際にやっていることではないかと危惧します。そんなことができるわけがないのに、このように自らを誇っていやしないか、いまここで点検するように致しましょう。


Takapan
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