創造の秩序の中で

チア・シード

ヨブ38:19-38 


主は、嵐の中からヨブに答えました。謂れなき不幸に見舞われ、三人の友人が当初は同情してくれたものの、やがて隠れた罪を告白してしまえと迫られ続ける中、ヨブはそんなものはないと突っぱねていました。エリフという若者が横槍を入れて、ヨブはそれへは反論ができないままでいたのですが、そのときに主が直接、つむじ風の中から何かしら激しい調子で現れてヨブに答えたというのです。
 
主は、知識もないくせに、とまず言います。思い余って告げたというようにも見えます。ヨブが次第に声色を強くし、自分には罪がないと言ってきたからでしょうか。元はといえば、主が、不幸が及べばヨブも神を呪いますぜなどという悪魔の誘いかけに乗り、では試してみよ、と許可したが故の事態だったのに、ヨブが気の毒ではあります。
 
主はヨブに、創造の世に、おまえはどこにいたのか、と呼びかけます。神からの問いかけは、いつでも人に自分自身を見つめさせます。創世の時にはアダムに、あなたはどこにいるのかと問いました。ヨブには、かつてどこにいたのかと問いかけます。そうして神は、よりダイナミックに大自然を示し、それと人間との対照を見せつけます。人間なんぞに、この自然に勝る力があるはずなどありません。また、なおも人間には知恵があるなどと自惚れてはならないと諭すのです。
 
こうした自然の描写やヨブとのやり取りなどには、時代的文化的な差異が顕著ではないでしょうか。時代も地域も違う私達には、それかぐいぐいと迫るものを感じないような気がします。ただ、光と闇の対比は理解できないわけでもありません。夜は闇と決まっていた過去の時代には、よけいにその対比は強かったことでしょう。闇の中に輝く光であるイエスを通して、私たちはこの対比を豊かなイメージで受け取ることができます。
 
主は、水の神秘が持ち出されます。フランシスコ会訳は、24節の「光」が不自然であるとして、「霧」と読み替えています。ヘブライ語ならではの読み替えとも言えますが、なるほど水について言及を始めたということで納得できるような気がします。大きな筋をも押さえていきましょう。
 
次は天体と気象。星座の知識において私たちと、つまりギリシア文明と共通項があるのが面白い。こうした対象は、人間が現代科学を以てしても、制御できないものばかりです。人知を結集しても対抗できないばかりか、その発生や抑制にも力が及ばないのです。神は地上の動物を具体的に示して、人間に支配と管理ができていないことを明らかにします。管理は任されても支配はできていないのです。
 
主は、よく見ると、天地創造の秩序の順序に従ってヨブに思い起こさせているかのようにすら見えます。天と地・光と闇が第一日。二日目が大空。三日目の海と草木。天体が第四日でありました。そして生き物が第五日。水はいろいろな形ですでに登場しているのですが、水を集めた海の第三日、あるいは水と水を分けた二日目に大きく扱われています。
 
概ねこの創造の秩序の中を旅させて、ヨブに、どこにいたのか、何ができたのか、と問いかけます。厳しいようですが、人間の分を弁えるという意味で、神はむしろ愛を以て諭しているかのようにも見えます。文学的に多くの見どころのあるヨブ記ですが、旧約聖書を様々な形で踏まえ、読者一人ひとりに問いかける姿勢を見出すことは幸いでした。


Takapan
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