神の業をイメージする

チア・シード

ヨブ36:15-33   


謎の若者、エリフ。ヨブ記に突如登場する若者と思しき人物は、ヨブの傍らで一週間すわりこんでいた友人たちとは別人のようです。ダニエル書で、人間にひれ伏すことをしなかった三人が燃え盛る炉の中に投げ込まれたとき、王の目には4人目の人物が見えたといいますが、それにも似て、ヨブ記の第四の人物は物語を収束へ導いていく役割を果たします。
 
でも、エリフとは誰かをいま考えるのは相応しくありません。神の代弁をしているかのようなこの人物の言葉を受けてみたいと思います。ヨブが苦難の中にあることは分かっています。神はあなたを聞いています。これを受けてきっとあなたは祝福されることでしょう。但し、富に目を奪われぬよう、またそのために誰かを助ける手を止めぬよう、忠告しています。
 
私たちは、神をただ称えることにまず専念しましょう。神に非を問うようなことは慎みましょう。ヨブとて、口数多くなってきたこの物語の中で、いつしか神に不平を漏らすように傾いてきていないでしょうか。いや、ヨブどころではない忍耐のない私のような者は、ヨブを批判するようなことをするつもりはありません。実際ヨブは大したひとです。
 
ヨブ記では、神の業を示すために、大自然の営みを幾度も持ち出します。私たち現代人の目から、それは少し理解しづらい場合もありますが、このような表現の拡がりが、具体的なイメージを与えることに貢献しています。神を直接見なくとも、そこに神の業が現れているのだ、と一つひとつの現象に注目することができるのは感謝なことです。
 
学者の結論は、どこか抽象化することを目標とするものですから、これは退屈なように見えるかもしれませんが、神は一人ひとりを大切に扱ってくださるのと同様に、一つひとつの自然現象をも気遣っている様子が伝わってくるような気がします。その上で、行動上の注意点については、いくらか抽象的にまとめ上げもしているように見えます。心してほめたたえよ、と。
 
苦悩によって私たちはテストされているのだ、とも言います。賄賂で惑わされるな、とフランシスコ会訳は冷静に訳していますが、新共同訳では、身代金が十分あるからといって道を誤らないように、と丁寧に訳しています。新改訳2017も大体そうです。私たちはイエスの救いを頭に浮かべます。イエスなら知っているぞ、などといい気になることが戒められます。

Takapan
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