決断の迫り

チア・シード

ヨハネ15:1-11   


「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(7)に焦点を当てます。訳の上で問題があるように感じました。「つながる」「いつもある」は、同じギリシア語の動詞です。この箇所で頻出するこの動詞を、新共同訳は多く「つながる」と訳しました。他の訳は大抵「留まる」としています。フランシスコ会訳のように両方使ってはいても、それが同じ語だと注を入れてくれているとありがたく思います。
 
「いつも」という日本語を補ったのは新共同訳だけで、誤解を招きかねません。「そうか、いつもないといけないんだな」と受け取るのとは少し違うと思うのです。留まっていること・何を待つようにじっとすること・長続きしていること、そんな様子を表す言葉です。「たしかに」のような軽いギリシア語を動詞化してできており、ここではアオリストの仮定法(接続法)が多く使われています。
 
アオリストは一種の過去形ですが、一回性の強い印象を伝えます。これが命令形になると、時制というよりも、一回だけ命令するぞ、という雰囲気をもつことがあり、決定的な判断を強く求める時に使われます。仮定法でも恐らくそうで、一期一会のチャンスがここにあるんだが、それだったら君はどうするのかい、と決意を求めようとしていると考えられます。
 
つまり、イエスはいま、共にいることをここで願い、これからもずっとイエスに従ってくるのかどうかを、弟子たちに、つまり読者たる私たちに、しかも当事者としてのあなた、そして私に、問いかけている表現であるのではないでしょうか。この強い迫りを意識しないでここを他人事のように読んでしまうと、イエスの迫りを無駄にしてしまうことになります。
 
ここは15章の始まりです。14章の末尾との結びつきが至って不自然であることから、研究者たちは、ここから17章までのまとまりは、後にイエスの告別の説教としてそこに挿入されたものであろう、と考えています。それがいつしか本文に重ねられまとめられてしまったのだ、と。それくらい、ここには私たちが腰を据えて聴くべき、イエスからの問いかけが迫り来る場面であるということではないでしょうか。
 
もしこうしてイエスと共にある人生を私たちが決意したとします。その時には、豊かな実を結ぶようになり、弟子として歩むことになるでしょう。父なる神が誉め称えられるでしょうし、私たちはキリストの愛を実現する者へと変えられていくでしょう。こうしてキリストの弟子たちは、キリストと父との関係の真実を世に示すこともできるでしょう。
 
ぶどうの木というメタファーはいかにも美しいですし、人々の身近な例として実感するに相応しい表現でありました。しかしこのことで問われているのは、イエスにつながり続けるかどうかです。多様な美しい表現を楽しんでいる場合ではありません。君はイエスと共にある人生を決断するのか。この一転に真摯に向き合い、自分の回答を、いま迫られているのです。


Takapan
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