イザヤ書の結末

チア・シード

イザヤ66:18-24

イザヤ

長大な預言の書、イザヤ書もついに幕を閉じる時がきました。幾度か書きかえたり、書き加えたりされながら、ここまで完成した、偉大な預言でしたが、もうこれ以上は必要がなく、足されることもなく役割を終えることになります。捕囚からはもう戻ってきているでしょうか。夢にまで見た解放を経験したばかりでなく、新しい礼拝が整い、その中で朗読されるに相応しい文体で意識されているようにも見えます。
 
必要なのは、砕かれた心です。信仰が精神的に深くなっているように見えます。新約の時代の捉え方にぐっと近くなっているのを感じます。そうしてエルサレムが真に復興し、人々の心が一つにまとまっていくように描かれています。そのうえ、全人類がその輪に加わってくる幻が掲げられて、イザヤ書は絶唱するように終わります。
 
すべての言語の民がそこに集います。それは、ペンテコステの日の出来事で成就することになります。ルカは使徒言行録でそのありさまを描きますが、このイザヤ書の預言を背景に有しているのではないでしょうか。ここには、地中海の対岸のタルシシュ、リビアと思われるプルはルドと共に小アジアにあると考えられます。ヤワンとはギリシアのことであることが分かっています。今にしてみれば小さな「世界」ですが、当時としては精一杯広大な世界だったことでしょう。
 
そこには、ペルシア帝国のような大国は入っていません。イスラエルの周辺にある、友好的な関係を築く場所が挙げられているのかもしれません。あるいは、当時すでにユダヤ人が散っていて、シナゴーグができていたような地域であるのかもしれません。そういうところでは、主の礼拝がすでに形成されていた成立していた文化があったと思われます。
 
エルサレムには、主への献げ物がもたらされます。もはや、イスラエル人だけの献げ物と差別されることもありません。驚くべきことに、そうしたいわば異邦の地の人間からも、祭司やレビ人が立てられると言われています。神殿での礼拝が異邦人だと許されない場面があったのが常識であるし、少し前の56章でそれが許されるというのも画期的な記述でしたが、ここへきてなんと祭司です。およそ新約の時代にもありえなかったであろう有様が、イザヤの幻の中ではっきりと告げられていたのです。
 
イザヤ書はこうして、一気に終末の様相をも帯びてきます。たんに新しい時代が始まる、と言っているだけなのかもしれませんが、黙示録の新しい天と地へとつながる幻が、こうして備えられるのです。そこには裁きの姿も描かれています。イザヤの召命に始まり、国が滅ぶのを預言し、それを目の当たりにし、捕囚を知り、救いのための犠牲のメシアの姿を描き、新たな国の回復の幻を見、終末の姿をも示します。偉大な預言の書、イザヤ書は、こうして幕を閉じます。さて、私たちはいま、どこにいるのでしょう。何を求められているのでしょう。私たち一人ひとりが、このイザヤ書の続きを、あるいはその行間を、生きていることが、お分かりでしょうか。


Takapan
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