道の石

チア・シード

イザヤ62:6-12   


捕囚の憂き目に遭っていた民がシオンに還ってきます。なんという喜びでありましょう。イザヤはそれを幻に見たという設定にしています。もちろん、それは現実に見た姿です。ならば、それは偽りなのでしょうか。私は、救われた時のことを振り返ります。救われたときに初めて、目が覚めました。神に出会ったそのときに振り返れば、これまで自分が実は神に導かれていたということを知ります。神はこんな計画を立てていたのか、と感動します。
 
救われた体験だけでなく、それが日常的に起こる、というのがクリスチャンの日々です。そうしてますますこの主を信頼するよりほかはない、と思わされていくのです。私はそれを証しします。これが、この預言のスタイルです。私たちは、自分を振り返りそこに神の導きを見るならば、その証しがそのまま、預言となるのです。
 
イザヤはそれをシオンについて、そしてイスラエルの民について述べています。生まれ変わるエルサレムの城壁の上には、見張りが常駐します。その見張りとはこの私自身だと思わないではいられません。神の都エルサレムの兵士として、世を見つめる役に任じられています。そして、良い知らせも悪い知らせも、悉く告げなければなりません。神は私たちの祈りの内に、また聖書の中から、神の心を示します。それは当たり前に与えられるのではなく、特別に与えられるのです。その意味でも私たちは預言をするのです。
 
イザヤは、シオンをあなたと呼び、そこに住む民を彼らと称します。こうして回復された都の描写の内に、個人としての救いに留まらない、共同体としての救いを見るような気がします。これはいまや教会と呼んでよいものでしょう。呼び出された民を神が救い、祝します。このことを知らせる神のメッセージに、私たちはどう応えましょうか。
 
ここに命令があります。道を開け。ここにいま目を留めましょう。人々が通って来やすいように、主の恵みがまっすぐに届くように、道を開くのです。教会に人々が加わるように、道を開くのです。また、その道はイエス・キリストご自身です。救いの道はイエス・キリストというお方である、ということをはっきりと示しましょう。
 
石を取り除け。旧き破壊されたエルサレムの城壁の石かもしれませんが、それは私たちの石の心であるかもしれません。パンになれなかった石かもしれないし、裁きのために投げ飛ばそうとした石かもしれません。何よりも、つまずき進行を妨げる罪そのものであるとも言えるでしょう。私たちの罪が、イエス・キリストというせっかくの道が、目的に届くのを邪魔しています。罪を取り除けと主が命じておられます。
 
城門は、羊の門であるイエスを思い起こさせます。イエスは道であり、門であります。ここを通ることで父の許につながります。救いが及びます。これを通らなければ、救いはないのです。その通り方については、私たちがイメージするものではないかもしれないけれども。私の中にある罪なる石を悉く取り除く必要があります。但し、自分でその石を運びどかすのは無理のようです。道なるイエスご自身が、実はその石を除き、消してしまわれるのです。いえ、すでに消してしまっているのです。


Takapan
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