希望の言葉

チア・シード

イザヤ60:1-3   


「起きよ」との語がまず呼びかけます。日常的に多用される語だとのことで、ありふれた表現なのですが、効果的です。立ち上がること、何か行動を起こすことを促します。いまや倒れている場合ではありません。たとえ力なく横たわらされているとしても、この声で力が与えられます。自分の中の声ではそれができません。外からの声が与える力が初めて私たちを立ち上がらせてくれるのです。
 
主の栄光があなたの上に輝く。この光も外から照らします。自分を信じて頑張るということの、なんと心許ないことでしょう。しかしこの光は、私たちを世の光に変える作用ももっています。私たちは、太陽の光をただ反射する、月のようなものなのでしょうか。あるいは、ランプのように、内部に油を供給されて燃え続け、あたりを照らすようなものでしょうか。この光は高いところに掲げ、別の暗い魂に光をもたらすこともできるはずです。
 
イスラエル民族が創造の神に選ばれるというのは、考えてみれば不思議なことである。それだけで論理が破綻しているようにさえ見えなくもありません。しかし、ひとの世には不条理が多々あります。いえ、そもそも不条理に支配されているとも言えます。世界は暗いのです。ひとが知恵を働かせて何かをしようとすれば、決まって欲深い出来事へと至ります。小さな存在の小さな声こそ、そこに光を投げかけるものとなりうるのではないでしょうか。
 
弱小イスラエルは、幾度辛酸を舐め絶望の状況に追い込まれたことでしょう。私たち個人の人生は、それほどのところにまで追い詰められたことがあったでしょうか。惨めな歴史を見て、なおそこに希望が与えられていくというのは、驚異的なことではありますまいか。暗黒が支配しているようなところに、主が光となって照らすばかりか、主を見上げる人間を、外からも内からも照らしてくれるのです。
 
しかも、すべての国々がこの光を受けるとイザヤは預言します。世の王たちもそこを安心して歩むでしょう。私たちはこのパレードに招かれており、そのために呼び出されています。最悪の歴史を担った民が、希望を失わないで全世界が平和になる幻を描くのです。正義を待つ人々がいつまでも残ります。この約束が真実でなくて何でしょう。ですから、この呼びかけに、起き上がりましょう。目を覚ましましょう。眠りこけている時ではありません。


Takapan
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