平和な情景の幻と教会

チア・シード

イザヤ11:6-9 


交読文で、幾度この箇所を読んだことでありましょう。牧歌的な、長閑さの中で私たちはこの情景を思い浮かべます。なんという平和であることか。あるいは、あまりに空想的な絵空事ではないのか。キリスト教徒とは、なんとおめでたい者たちが揃い、夢のような話を信じていることなのでしょうか。
 
イザヤが描いているのは、ダビデの子孫から、特別な霊を与えられた者が現れて、弱い者たちを守ってくれること、そしてそこにこそ正義が実現するということです。イスラエルの民が、世界的に見ても小さく弱い民族であるから、だからこそその神は愛してくださるという信頼を寄せている、それがイスラエルの信仰と呼ばれるものに違いありません。この幻の中で、動物たちの平和がもたらされているのは、どんな残虐な民族も弱い民族も共に争いがない時代が来るのだという、神のもたらす平和への信頼でありました。
 
虐げられる民も、さらにその民の中の弱者も、大帝国の王や兵士たちも共に安らう時がくることをイザヤは示します。そもそも兵士とは、たんに戦う存在なのではありません。殺すことを以て業務と考えるようにさせられた、メンタル的には壊された人間であるとも言えます。殺すことを是とするために、通常の精神を破壊する訓練を施されなければ兵士にはなれません。誰にでもできる任務ではありません。
 
しかし、野生の動物たちにとっては、獲物を殺しそれを食らうのは、生きるために必要な当然の行為です。私たちも食糧として見なす動物たちは当然のこととして殺します。さすがにすべての人が屠殺できるものでもないでしょうが、食するという点では、よほどのベジタリアンのほかは皆、殺した動物を食べて命をつないでいます。獅子もまた、肉でない草を喰むことになると預言するイザヤの思いは、もはや殺す者が殺す者としての仕事をしないようになる、と描いているのです。
 
蝮の穴に手を差し入れる幼子も、害されることはない。悪へ手を触れようとしても、悪に染まることがないらしいのです。そこは、主の聖なる山での出来事です。つまりは神の国の有様です。私たちはこの光景を、神の国の様子として思い描くことが許されているといえましょう。互いに害せず、滅ぼし合うことのない関係の中にいます。
 
地上の神の国である、とできるなら称したいのが教会です。それは神に呼び出された者たちの集まりであり、共同体を形成していますが、果たして私たちは、互いに害すること、滅ぼすことをしていない、と言えるでしょうか。主を知る知識が神の国を満たしているとするなら、教会は、主の知識で一杯であるべきなのです。他の教会との関係もそうでありたいし、同じひとつの教会の中であれば、それはなおさらです。それは、まず自分からそれをなすように、動き始めるところから、始まります。


Takapan
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