正義感と感情

チア・シード

創世記31:43-32:1 


ヤコブは、自分としては正当なことを遂行しているつもりでした。ラケルを愛したが故に仕えたラバンに騙されるようにして働かされた末、愛するラケルより先に見栄えのしない姉のレアを差し出され、さらにラケルのために長期にわたり仕えるように強いられたのです。財を手に入れ、ラバンの許を逃れるというのは、自分の中で正当な理由があってのことでした。
 
知恵を以て策を練り、力のある家畜を自分のものとすると、立ち上がり、カナンの地へと逃げるように旅立ちます。自分の命を狙うかもしれないエサウのいるところに戻るのですから、利用されるままにラバンの許にいたほうが気楽だったかもしれないのに、そこは血のなせる業でしょうか。それとも、ヤコブの正義感が、それを許さなかったのでしょうか。
 
3日の後にラバンは気づき、7日の後にヤコブに追いつきます。その際、神はラバンに声をかけていました。イスラエルを名のることになるヤコブばかりでなく、その敵にも神は呼びかけるお方でした。ヤコブを非難するな。事の善悪を問題にするな。ラバンはそれを聞きました。それで、ラバンはまずヤコブに、神々の像の窃盗について問うたのでした。実はラケルが、財になると思ったのか、盗んでいたのですが、月のものを理由に操作を拒み、見つかりません。ヤコブはこのすべてを知らないので、身の潔白を確信し、ラバンに詰め寄ります。
 
ラバンは実は、像のことはよかったのでしょう。孫や娘たちに別れの挨拶もさせることなく出て行くのはいけない、という点だけ、ヤコブを責めました。ラバンなりに、神からの呼びかけを受け容れたのではないかと思われます。これが恐らく本音の寂しさであり、ラバンもまた、ここで別れの儀式を行うことで折り合います。食事を共にするというのは、重大な契約と親愛の印であったことでしょう。
 
ラバンは、ヤコブが離れて行くことを認めます。互いに境界線を設けようと提案します。これを越えることは今後ないように、と石塚を建てるのです。神の名にかけた契約がここで結ばれます。このとき、アブラハムの兄弟であるナホルの神とまで言及されます。この境界は、ヨルダン川東部において壁となり、以後イスラエルと異邦地域とを隔てる壁となります。ラバンもまた、自分の娘や孫たちの幸福を保証する者として主なる神の名が用いられることに賛同しています。
 
キリスト者は、ここでヤコブに自らの立場を重ねて見ることができるでしょう。世を捨て、離れるヤコブ。そこには、キリストに招かれたという「正義」の意識がきっとあります。それは悪くはないのです。しかし、このラバンは、それなりに傷ついています。ヤコブのしたことは、ラバンを傷つけています。ラバンが招いたことだから、とヤコブは正義感を訴えるかもしれません。それでもラバンの感情は、せめてもの別れを拒否され、傷つきました。そしてこのラバンも、神の声を聞いてその呼びかけに従っているのです。
 
知らないとはいえ、ラケルの窃盗の件でも、ヤコブは自分は正しいと言い張りました。ヤコブの正義感は、どこか独りよがりであったかもしれません。世の人々の寛大な扱いの中で、自分はクリスチャンでいることを許されている、そういう視点をもつクリスチャンは幸いです。独りよがりにならずにすむクリスチャンは幸いです。確かに一定の教会は築くことになりますが、互いに越えぬことを互いに認め合えるクリスチャンは幸いです。


Takapan
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