キリストの律法と日本の教会

チア・シード

ガラテヤ6:1-5   


キリストの律法を全うする。これを目指すように、ということなのでしょう。ガラテヤの人々へ、なかなか思惑通りにならない苛立ちを覚えつつ、パウロは時に威圧的な言い方もしてしまいながら、割礼問題について徹底的に抵抗を続けてきました。あのモーセの律法に型どおりに従うことから私たちは解放されているのに、どうして、という思いがつきまとうのです。
 
もともと異邦人社会であれば、旧約聖書の縛りはないし、それへ文化的に依存しているという感覚はなかったかもしれません。パウロはそうした社会に対してのやりやすさとやりにくさと両方感じていたかもしれません。旧律法に支配されない自由さと、キリストの意味を分かつてもらえない困難さとです。日本だと、後者が問題となるところでしょう。
 
ガラテヤ教会へ、ユダヤ教徒がやってきました。いえ、キリストを信じているクリスチャンでもあったはずです。モーセの律法も必要なのだ、という、ある意味で尤もな考えをもたらします。これは現代において強く関わってくる問題であると言えます。旧約聖書の、都合のよいところだけを必要だと引っ張ってくることを、普通にやっているからです。
 
また、これまでがそうだった、と言って、伝統の礼拝はこうである、と従来の方法に固執死、新しいスタイルをけしからんとし、圧力さえかけてくるのだとすれば、ガラテヤ教会のこの混乱はいまもあると言わざるをえません。当人たちはそれを当然と考えているのです。ガラテヤ教会を惑わし、パウロを怒らせているなどとはつゆ考えてはいないと思います。
 
ここでパウロは、罪を犯した人に思いやりを以て対処するように、その接し方を提案しているように見えます。愛という語で説明しているのではありませんが、これこそ愛ある態度のことでしょう。その上、質す側もまた攻撃している相手と同じような事態に陥ることがあるというのですから、気をつけなければなりません。
 
自分が何者か価値ある存在であると自己認定してしまうと膨れあがってしまうのが、人の常なのです。偉そうに人を見下すことを戒めるパウロですが、パウロ自身、自分がそうでなかったかどうか省みていることでしょう。互いに重荷を負うというのは、決して簡単なことではないのです。
 
日本は、キリスト教の歴史から見ると、はるか遠い国で遅くになってようやく福音が伝わったところです。文化も激しく異なります。ガラテヤどころではないのですが、その異文化のど田舎で、何かしらひとかどの者として威張りつつキリストの律法でないものに固執しているというような図式は、確かにありそうではありませんか。


Takapan
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