自由の概念と適用

チア・シード

ガラテヤ5:13-15   


あなたがたはサラのように自由が与えられている。パウロが自由を以てむしろ主に仕えることの尊さを伝えるために、苦心している様子が窺えます。近代的な自由の概念と等しいとは言えませんが、新しい自由論が考えられているようにも感じられます。つまり、仕えることは一見自由とは反対のことのようですが、実は仕えることこそ自由なのだ、という見解です。
 
それはルターも言っていました。キリスト者は仕える自由をもっている、と。哲学者のカントもまた、自分が選択の自由をもって自由にしているようでありながら、それは実のところ自然法則と感性的な条件に操られているだけのものであって、それに意志を以て否定を下し、カントなりの愛の律法である道徳律に従うことこそ、自由の発動なのである、と考えました。
 
ガラテヤ教会のメンバーが再び割礼といった不自由な束縛の中へ引き戻されていくことに怒りを覚えたパウロは、冷静に説得しようとします。救われた結果、あなた方は自由を与えられたのではなかったのか。選択を好き勝手にできるというのが自由なのではない。それは実は巧みに操られそう選ぶように強いられている構造に気づくのだ。
 
近年はこれを、マインド・コントロールという言葉で世が知るようになりました。コマーシャリズムもこの効果を狙っていますし、世論操作もそうです。政権担当の政治家はこれに長けた者たちである、とまで言うことが可能でしょう。他人から見ても、こうするだろうと考えられたそのままにしか行動しないとしたら、自分は自由だと言い張っていても、実はただ利用されているに過ぎません。
 
パウロの見ている状況はこれに近いものがあったことでしょう。律法の規定に縛られていくガラテヤの信徒の話を聞いて、歯がゆく思ったに違いありません。ところで、イエスが語った、隣人を愛せという教えは、このときまだ福音書という形では明らかになっていません。が、語録か資料かをパウロは知っていた可能性があります。
 
それにしても、パウロはイエスの語った譬えについて言及している様子が殆どありません。もし知っていたらもう少し語りそうです。イエスのスピリットの理解に長けていたでしょうし、自分がイエスと出会ったことについては冗舌に幾度も語るのに、パウロは福音書に収められた豊富な語録につい触れないのはどうにも不自然です。この点についての研究は寡聞にして私はあまり知りません。ご存じの方は教えてください。
 
互いに食い合っている。面白い言い方です。なるほど私たちは、よく共食いをしているのかもしれません。イエスに従っている、と互いに確信する信徒同士が、自分こそと言い張り、相手の従い方を否定すらします。それはどちらをも滅亡へと誘うようではないでしょうか。現代的な視点で、パウロの忠告をもっと聞き、受け止めることが求められています。


Takapan
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