預言者の責任

チア・シード

エゼキエル3:16-21


反逆の家に行け。エゼキエルはそう命じられました。そして霊に引き上げられると、テル・アビブの捕囚の民のところに連れて行かれます。そこで七日間、呆然として過ごしたといいます。この数は、十分な期間という意味なのかもしれないけれども、何をしてよいか分からず戸惑っている時間がたっぷりとあったということです。外国人ではない、だから言葉は通じるではないか、何故黙っているのか。エゼキエルは、主からの命令を、まだ行動に移していません。
 
主の言葉が改めて下ります。イスラエルの家の見張りとして任命するというのです。神の声を聞いたなら、神に代わりイスラエルのに警告をせよというわけです。先に腹に入れられた神の言葉の巻物があるので、そこから言葉が自由に出て行く、というものではないようです。神の言葉は、その都度与えられるから、それを警告として与えよというのです。
 
ここに挙げられた悪人・正しい人という定義に、少し悩みます。神からのお達しではありますが、人間の判断によるものなのでしょうか。元来悪人と正しい人という区別が、果たしてあるのでしょうか。神と向き合うときに、正しい人と言えるのでしょうか。いえ、律法を守り行う者が正しい人という意味が、最もノーマルな理解であるかもしれません。
 
律法に従わない、あるいは従えない者が悪人であるとして、そこへ預言者は警告を届ける、これがエゼキエルに課せられた前提です。もし警告なしに悪人が律法違反を続けるとき、悪人は確かにその罪ゆえに死ぬでしょうが、もし警告を発することを怠っていたとしたら、その死の責任を預言者が負わせられることになる、という論理です。警告さえしていれば、あとは本人の責任だけとなるのです。
 
同様に、律法に従っている正しい人にも、預言者は警告を届ける責任があるのだと言われています。ここでは、正しい人も、不正に手を下すということがあるとされています。そのとき、警告を発していなかったならば預言者がその罪の死の責任を問われるというのです。しかし正しい人であれば、警告を聞き入れて悪に陥らない可能性が高いのでしょう。危険へと落ちないように、預言者は、弱い人間のところへ、神の言葉を警告として届ける義務があるわけです。
 
いずれにしても、罪から離れるところにこそ命があります。預言者が悪人がその悪の故に死ぬ場合にさえ、責任が問われるというのは、預言者にとってはなかなか不利な設定です。正しい人がいくらかつて善を行っていたとしても、その後の不正により罪に死んだ場合でも、警告を与えなかった預言者もその責任があるとされてします。預言者とは何と厳しい職なのでしょう。責任のあるところへ呼び出されていることでしょう。私たちは、この預言者として呼ばれているのでしょうか。一人ひとり、神との関係を問い直してみましょう。


Takapan
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