神の言葉を腹に入れて

チア・シード

エゼキエル3:1-11


捕囚の民の中にいて、エゼキエルは神と出会います。自分の足で立ち上がるよう命じる神の霊がエゼキエルの内に入り、イスラエルの反逆の家へ行けと遣わされます。さあ行け、というそのとき、口を開かせて、そこへ表裏たっぷりと文字の書かれた巻物を入れました。こうしたモチーフは、やがて黙示録に受け継がれます。
 
エゼキエルは主から「人の子」と呼ばれました。福音書の主イエスもまた、自らを人の子と呼んでいました。福音書記者がこのエゼキエルと重ねる意図をもっていたことが推測されます。人間は人間なのですが、何かしらただの人間ではない印象を与えます。
 
この巻物は、腹を満たします。それは蜜のように口に甘かったと表現されています。神の言葉を口から入れる、それは甘いものである、という図式も、やはり新約の黙示録でも使われました。もしそれが苦いとあれば、また別のイメージが重なってきます。不貞を為した女を判別するために飲ませる苦い水(民数記5)や、荒野の中で水が苦くて飲めなかったことで苦い意味の「マラ」と地名が付けられたという記事(出エジプト15章)が脳裏に浮かびます。後者では、モーセが木を苦い水に投げ込むと、甘くなりました。木を十字架になぞらえると、黙想が深まりそうです。
 
エゼキエル自身にはその巻物は甘かったのですが、語られる対象の反逆の家にとっては、それは甘いものではありません。そこには哀歌・呻き・嘆きの言葉が記されていたと前章末にあります。語る言葉、その巻物の文字は、彼らに通じるでしょうか。そう、ギリシア人にとりバルバロイと称された奇妙な舌の者たちという見方はヘブライ語にもあったようですが、そんなことはないのです。同胞イスラエルの民に知らせるのです。しかし、言葉が通じません。いっそ、外国語のほうが通じただろうに、との嘆きもありました。
 
ただ、それでも通じないことがあります。人と人との間に誠実さがないと、信頼関係も崩れ、話が通じなくなります。私たちの置かれた世界にはそんなことばかりです。また、教会の側が外の世に対して通じない言葉を使い、門を閉ざしているという自覚がない場合も見受けられます。繰り返しますが、そのことに自らは気づいていません。気づいていないから、依然としてクリスチャン用語を当然のことのように用いて、初心者にとっての異言を見せつけてその人が近づくのを拒んでいるのです。
 
言葉が通じない、反逆の家。これを聞いて、どういうイメージをもちましたか。他人事として読んでいませんでしたか。ああ、あのイスラエルの民だね、という程度。あいつに似ているぞ、と身の回りの誰か。それは聖書を他人事として見ている人の考えであるかもしれません。無条件で、その悪人は、自分とは無関係の誰かのことと前提してしまっているからです。でも、それが罪なのです。聖書を聖書として読むための原則です。
 
エゼキエルは、頑ななイスラエルの民よりもさらに硬いガードを神に具えられ、恐れ、たじろぐなと声をかけられます。語る相手がそれを聞こうと聞くまいと、時が良くても悪くても、主なる神の御名による語るのです。そのためには、神の言葉を心に納めていなけばなりません。人の言葉でなく、神の言葉が人を救い、癒します。私たちの腹には、ぎっしり文字の詰まった巻物が、ほんとうは入っているはずなのです。ロゴスなるキリストが内にいますのならば。


Takapan
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