神の言葉を食べよ

チア・シード

エゼキエル2:8-3:11 

エゼキエル

「人の子よ」という呼びかけが、一つひとつの言葉の始まりを飾っています。どの命令をも軽んじることはできません。神に背を向けるな、というのも当然です。注目したいのは、巻物を食べよ、という命令です。口を開け、それは神の言葉を体内に受け容れ自らの一部としていくことになります。食べたものは、私の体を形成し、支えます。神の言葉が、私を形作っていくのです。
 
エゼキエルが口を開けるおそらく前でしょう。神の手が伸びてきます。その手には巻物がありました。当時聖書というのは、巻物の形をしており、そこに長く文章が綴られているのでした。羊皮紙には毛側と肉側がありますが、毛側はインクの吸収が悪く耐久性に劣るので、肉側に記します。毛側は丈夫なので装丁に用いました。中世期の頁状になると、両側に書いたものが多くなります。しかし巻物は基本的に片側だったと思われます。それが、表にも裏にも文字が記されていた、とエゼキエルは証言しています。これはどうしたことでしょう。
 
私はこの表と裏がわざわざ書かれてあることについて、人間の側から見る言葉と、神の側から見る言葉とを想定してみました。つまり、同じ言葉であるにしても、神の側からの真理を、人はそのまますべて知るわけではなく、人間の理解できる向きでしか知りえない、ということです。同じ聖書の言葉が与えられていますが、人の目から見れば、人の理解の及ぶものとしてしかそれは認識できません。ただ、イエスはどちらからも見ることをしました。聖霊もまた、私たちに、神の側からの意味を垣間見せてくれることでしょう。
 
人から見ればそれは哀しい歌であり、呻きと嘆きの言葉でありました。しかし、神からすればどうでしょう。エゼキエルは巻物を食べました。胃に入れ、腹を満たせと告げられました。すると密のように口に甘かったといいます。苦難の言葉が、いざ味わうとなると、楽しみとなり、喜びの言葉となるのかもしれません。呻きも嘆きも、実は甘いのです。甘くなるのです。
 
主はさらに、イスラエルの家に行き、神の言葉を語れと命じます。外国の言葉は、何を言っているか分からない野蛮語だとギリシア人は見ていましたが、その文化的優越感はさておき、エゼキエルが命じられたのは、通じない言語ではなく、言葉の通じるはずのイスラエルに向けて語れということでした。だのに、イスラエルは神の言葉を受け容れません。かつてエジプトのファラオを頑なにしたのは主であると言われていましたが、ここでもまた、わざわざイスラエルを強情にしていると告げます。本当でしょうか。
 
エゼキエルを神は用いようとしているのです。エゼキエルは、ひたすら神の言葉を語り告げなければなりません。反逆に遭うことで、エゼキエルはさらに磨かれます。自分を頼ることをせず、主に助けを求めるでしょう。そして、主への信頼をより硬くしていくことでしょう。ダイヤモンドのようにもする、と主は言っています。主はエゼキエルのために、そしてまた、それにより神の言葉が真実にいのちとなって語られるように、イスラエルを頑なにしていると解釈できます。道具のように用いられるイスラエルは気の毒ですが、救いの歴史に必要な過程であると理解してよいのでしょう。
 
私たちも、神の言葉を伝えます。神の言葉を預かる預言のはたらきに加わっています。そのとき、すんなりと誰もが神の言葉を受け容れて従うわけではありません。拒絶され、迫害されるかもしれません。なにせ、彼らは捕囚なのです。神ならぬものに、縛られ囚われているのです。私たちは、人々が受け容れようと拒もうと、恐れずたじろがず、ただ神はこう言われる、と語り続けるように命じられています。僕は、命じられるままに従うしかありませんが、私たちは僕としても特殊です。その神の言葉を食べたのです。私たちの体を作るのは、神の言葉なのです。生きているのはもはや元来の私ではありません。だから、何も気を回さなくてよいのです。嘆きもまた喜びとして味わえる、神の言葉を戴きましょう。


Takapan
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