導く雲と火

チア・シード

出エジプト40:34-38


かつて存在した歴史上の物語としてエジプトという名を使わざるをえないのですが、いまも実在するエジプトという国名を使うのは、正直よろしくないように思います。人が拘束されている奴隷の状態を象徴する出来事として、イスラエル人がエジプトに支配されていた時のことが語られるのです。そのエジプトから脱出することが、自由への、約束の地への旅の始まりだというのです。
 
脱出は、過越という祭として記念され、いまもなおユダヤに続く祭となりました。そこから派生したキリスト教も、そこに十字架と復活という要を置く、重要な出来事としてこの脱出を理解しています。喩えではあるにしても、いまのエジプトの人々からすると、不愉快極まりない言い方が毎週全世界のどこかで語られていることになる、とも言えます。
 
過越は、キリスト者にとり、自分が神の怒りを過ぎ越されたという事実を意味します。しかも、なおも私たちは地上を旅する民の一人として歩み続けており、その歩みがいつ終わるとも知らず残っています。この世を旅する者として、いましばらくは使命が与えられているのです。それをどう歩むかを学ぶために、かつてのイスラエルの民の歴史が目の前に置かれています。それが荒野の旅でした。
 
城壁の町を出ればそこは荒野。北の大地はともかく、南のユダの地方はそういう景色がざらにありました。都市の門から外に出れば、何が起きても不思議ではない荒涼とした土地で、危険な場所でした。私たちの人生も、何が起こるか知れず、苦難を伴う、荒野の旅になぞらえられます。ただ、イスラエルの民には、同行する神が確かにありました。
 
臨在の、あるいは会見の幕屋と呼ばれる、特定の指導者が入り神と出会う幕屋を、主の雲が覆います。いまや、キリスト者は、誰でも神と会見できます。いえ、会見しなければなりません。神と向き合うことのないキリスト者は、キリスト者ではありません。というのは、かつては大祭司など特別な役職に委ねられていたそれが、いまや大祭司キリストにより、すべての人に分かたれたからです。私たちがキリストと出会い、キリストを見つめ、キリストを着るということは、キリストを通して誰もがこの会見の幕屋の出来事を当然のこととして体験しているということにほかならないのです。
 
心の座に、キリストがいますか。主が私のすべてをコントロールする司令室に、いてくださいますか。そこには主の栄光が満ちています。幕屋から雲が離れて昇ったとき、初めて民は出発できたといいます。私の歩みを導く神が、必ずリードしてくださるという図式をそこに見る思いがします。私はそのとき、正しく私として歩みます。神のたんなる奴隷ではありません。神の導きに従うか、神は少しだけ離れて私を信頼しています。私が従うということは、その信頼に応えることになります。
 
その雲は、もしかすると遠くかすかに見えるようなことがあるかもしれません。それを神の導きの雲だと認めること、信じることができれば、遅れをとることはありません。エリヤがカルメル山で遠くに認めた掌ほどの雲は、何年にもわたり雨のなかった地に、猛烈な雨をやがてもたらしました。祈り求めるとき、かすかな手応えを主は遠くに見せてくれることがあります。雲にはそんな神からのメッセージがこめられていることがあるのです。
 
さあ、先立つ主を見上げましょう。そして私は歩み始めます。この先導なしに勝手に自分が行く先を決めるわけにはゆきません。主は、昼には雲の柱、夜にはその雲の柱の中に火が現れます。闇の中に輝く灯りがあります。世が闇のようであっても、光が主から来ます。神は光であり、その光の照らす中に、私の歩み道があります。私たちの歩く道は、基本的に夜なのです。
 
やがて、夜のない都がきます。が、今はまだ夜があります。光の中を歩めという命令は、今すべてが光となっているわけではないことを前提としています。この灯は、道を照らす灯りです。救い出された人は、この光が分かります。イエスが光です。光を光として知ることは、神を神とすることと重ね合わせることができます。キリスト者はすべてこの光を見る者です。神を神とする者です。この物語には、イスラエルの人間の自我の出番は、微塵もないのです。


Takapan
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