ふだんの祈り

チア・シード

出エジプト記32:7-14   


モーセは主なる神を宥めて言った。ここが今回注目すべき一言です。モーセはいま、十戒をはじめとして律法を神から受けていました。カナンの地に定住してからの律法ばかりではないか、とも言われていますが、私たちがいま常識としている歴史の記録がここになされていると決めつける必要はありません。こうした知恵が、民族に与えられたことと、そこから私たちが背後に神を知り神と出会うのかどうか、そこに意義がかかってきます。
 
モーセには十戒が授けられたということ。ここから始めます。この間、下界ではとんでもないことが起こっていました。モーセがなかなか戻らないという不安の中で、民は別の神を求めたのでした。そうして、エジプトから巻き上げた金を費やして、金の子牛の像を造ります。ここにアロンが関わっているのですが、どうして主がアロンをむしろ用い、咎めなかったのか、不思議でなりません。ただ、私自身がアロンであったことは事実です。
 
こうまでも、偶像をひとは求めてしまうものなのでしょうか。しばし待つことが、できないものなのでしょうか。主はそれを自ら滅ぼすようなことはなさいません。モーセに告げ知らせ、モーセを派遣します。モーセは試されていたのかもしれません。どうして主がモーセに情報を与えて遣わしたのか、ここに立ち止まって考える価値があります。いまの私たちにも、その使命があるかもしれないからです。
 
こうして見ると、モーセが主を宥めたということがすばらしいのではなく、そもそもモーセに対して主が事態を知らせ、対話をしているというシチュエーションそのものに、注目するべきではないかと思われます。これに対してモーセは、いかにも機転を利かしているかのようにも見えますが、どうでしょうか。かの情報に慌てたり呆れたりする前に、直ちに主の立場を案じているかのように発言しています。主の名誉を重んじています。まるで神を思いやるような心の向き、ここを、私たちの祈りのための学びとしたいものです。
 
ただモーセは、かねてからこの事態を予感していたのではないか、とも思われます。不平を言う民を率いてエジプトから導いてきていました。自分には荷が重いことも初めから訴えていました。けれどもこうして自分が先頭に立ち導く役目に置かれたのは、主の計画の中での出来事なのだと自らに言い聞かせていたのではないかと想像します。モーセは、主を宥めたというよりも、もしかすると自分自身を宥めていたのではないかという気がしてきました。
 
その出生からして奇遇な体験を続けてきた自分が、主に呼び出され、何十万という民族をエジプトから連れ出して、民族の未来を背負わされましたが、民は不満をぶつけてきます。手に負えないと思えるときも、堪えてきました。それでいつも主の計画と自分の使命を思っていた、祈っていた。それが、主との対話の中で、咄嗟に出たのが、宥めの言葉ではなかったかと思うのです。神と自分との関係を問うかのように。私たちは、普段から不断の思いを抱き、祈っていれば、それが正直に現れるものなのです。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system