十戒を別視点で味わう

チア・シード

出エジプト20:1-17  


十戒が授けられます。本当にこれは10なのかどうかさえ、疑おうと思えば疑えるのですが、完全数の一つとされた10に収められていることはたぶん間違いないでしょう。ただし、カトリックや聖公会、ルーテル教会などでの第二戒と第九、十戒の扱いとが、プロテスタント一般とは異なっています。カトリックはこれで偶像規定を弱めようとした、などと批判されることもあります。
 
シナイ山頂に主は降りて来られ、モーセが呼び寄せられます。モーセは人々の世から高いところに上げられたわげてす。それから律法の根幹を受けて、再び人の世へ下れと命じられます。この警告で命を失うことのようにせよ、と。この辺りの叙述が私にはいまひとつイメージできないのですが、いまはそのことに拘泥しないことにしましょう。
 
「してはならない」の邦訳の口調は、「するはずがない」の含みをもつとよく言われます。つまり「殺してはならない」は「殺さないであろう」「殺すはずがない」の響きを有しているのだ、と。神が人に対してある種の信頼をもっているように感じることもできるでしょうか。ですからこれは「十の戒め」というよりも「十の言葉」というのが本来の呼び名であるとされています。
 
さて、イスラエル文学(ラテン文学などにも)の手法に「交差対句(配列)法」なるものがあることは、これまでも幾度かお伝えしてきました。マルコ伝の中のこれを悉く実例を交えて説明した本『マルコ福音書のイエス』はたいへん勉強になりました。詩編の中にもこのような構造が見られるし、いつからそういう文化であったのかは分かりませんが、十戒にそれを適用したものは私自身出会ったことがありません。しかしそれをここで試みようと思います。
 
「わたしをおいてほかに神があってはならない」(1)と「隣人のものを一切欲してはならない」(10)は、他の民族や人々がどういう宗教をもっていても、他の神を求めてはならないというように聞こえます。心の中で、違うものに惹かれていくありさまを、あるいは動機のようなものをも探るようにと呼びかけられています。
 
「いかなる像も造ってはならない」(2)は「偽証してはならない」(9)と比較されるでしょうか。一定の像を刻むことが、偽りの証言をすることとリアルに重なることはないかもしれませんが、アイドルとも呼ばれる偶像を立てることにより、他の神を求めるという心の向きをもつばかりでなく、偽りの信仰を告白することになる、いっそう積極的な神への背反を意味することになりはしないでしょうか。ですからこの第二戒には、熱情の神なり幾千代もの慈しみなり、神は念を押しているように見えます。
 
「主の名をみだりに唱えてはならない」(3)と「盗んではならない」(8)はどうでしょう。主の名を別の意味に、たとえば自分自身の腹に仕えるため、自己満足のために用いるとすれば、それは主の名を盗む行為だと見られないでしょうか。神を利用しがちな現代の私たちにはますます鋭く問いかけられているような気がしてなりません。
 
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(4)と「姦淫してはならない」(7)は無関係のようにも見えますが、こじつけと言われても、ここでひとつ結びつける視点をもちたいと思います。それは、安息日には神との関係を取り戻す意義があるという視点です。神を忘れたかのようにさえ暮らす週日を経て、神がしてくださったことに思いを馳せ、一日を神と語らいながら過ごす、しかし姦淫はこのような関係を破壊します。神の聖別ということを強調しているのも、姦淫に関わる指摘であるかもしれません。
 
「あなたの父母を敬え」(5)と「殺してはならない」(6)が、対句の中央をなします。中央にあるものは、これらの構図の中でのピークを表し、全体のクライマックスが置かれているといいます。律法の根幹は、神を神とせよ、ということでもありましょうが、この十戒の中では、これら二つが重要と意識される位置に置かれていると理解することができます。
 
肉の父母もあるでしょう。自分の出自です。自分がどこから来たのか。それは両親です。そして、歴代誌にあったように、人の系図はアダムに遡り、神に至ります。人が神の子であるならば、ここの神と自分との強い関係が示されていると見ることもできるでしょう。殺すというのは、未来を消すことにもなります。永遠性への背反でもあります。二つの戒めは、過去と未来を排除することになります。それは自分が神の永遠から永遠への連関の中に位置していることの確認となります。ひとは、どこから来て、どこへ行くのか。哲学的に基礎的な問いがここに凝縮しています。だからまた、いまこの時が要であることをも教えていると理解することもできるでしょう。
 
これら二つの中央の戒めの間には、つまり十戒の中央の中央には、次の言葉が置かれていました。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」 ここに、神が人間に与えようとしてい最大の恵みがあるのだ、と十戒は告げているのではないでしょうか。永遠の命の結末としては頼りない表現ではありますが、それは確かに「主が与えられる土地」であるというのです。


Takapan
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