キリストへと成長する

チア・シード

エフェソ4:14-15   


実はこの2節だけを切り出すのには無理があります。11〜16節は一連の文であり、たたみかけるように、目的の連鎖でつながっているからです。ここは、教会がキリストの体として一つのものであることを前提として、その中で一人ひとりを相応しい役割のために備え、それがキリストの体を構成していく様子を描いています。
 
教会に属する誰もが、その鎖の中にあって、一つにつながっていきます。それは、信の統一、体験的知の統一へと到達するはずです。パウロの思想を踏まえている書簡とされますが、確かにパウロを効果的にまとめあげようとしているように見えます。
 
完全な者へと私たちは導かれます。ですから、いつまでも幼児のままでいるわけにはゆきません。人々を誤りに導く悪賢い人間が突然登場するのは、おそらく特定の敵がいることに基づいているのでしょう。教会を惑わす流行の教えかもしれず、旧い考え方が息を吹き返そうとしているのかもしれず、またキリストの名を持ち出しながら己の腹に仕えるまがい物のもっともらしい説が波風を立てているかもしれません。
 
いずれにしても、風を追うように空しいとコヘレト書が繰り返したような世の思想は、いまと違い、カノンの定まっていなかったこの書簡の書かれた時代には、弾くのに労したことが推測されます。幾つかの権威わ認められた書簡や福音書の中にも、しばしば信条めいたものが並べられています。信仰の柱はある程度見えてきていたことでしょうが、まだ正典としては組まれていないのです。
 
それどころか、現代ですら、このような悪賢い人間については、怪しいものだと言わざるをえません。狡猾な者だと見られたこの悪人も、恐らく本人は大真面目に、自分の考えが唯一真の福音であると胸を張っていたに違いありません。但し、キリスト者の一つのカノンは、教会の定めた正典というよりも、実に愛でありましょう。愛に根差すのでなければ、そこに命はありません。見せかけの造花に過ぎないのです。
 
キリストという岩の上に立つばかりか、その岩からは生ける水が出て溢れるのです。この水を吸収してこそ、ひとは生きるのです。そこで真理なるイエス・キリストが語ります。キリストが私たちの長兄としてリードし、そこへと達するべく私たちは招かれています。強調されているのは成長です。成長させるのは神だとパウロが言ったことを敷衍しているのかもしれません。
 
成長の目的にキリストがいます。ここにある表現をそのまま生かすなら、私たちはキリスト「へと」成長するのです。成長させて戴きます。どんな個性がひとにあり、肢体のどの部分であろうとも、誰もがキリストへと成長していくのである限り、体は一つ、霊は一つである故に、主は一人、信仰は一つ、洗礼も一つとなるはずなのです。



Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system