祈りの模範

チア・シード

エフェソ3:14-21


パウロのものとされていた書簡ですが、近年その点は疑いがかかっています。しかし、パウロの精神を受け継いでいることは、長年パウロのものと考えられてきたことが証明しています。私たちは、パウロを信奉しているのではありません。私たちが信じているのは、神です。エフェソ書から命と恵みを受けたいものです。
 
自分が福音を伝えた相手が、その語健全な信仰生活を送っているのかどうか、伝道者は気になるところです。しかしそれは伝道者がどうにかすることはできません。まさに祈り心で見守るしかないのです。ここに、その思いで祈っている篤い祈りの言葉が提示されました。主イエスが教えた祈りとはまた違いますが、パウロが教えたようにされています。教会でも、これを祈りの模範として示したかったのかもしれません。
 
まことに美しい祈りの模範です。祈りの教科書です。私は主の前にひざまずいて祈ります。天と地の「家族」と訳されている語「パトリア」は、父「パテール」と関連があります。感覚的には「兄弟姉妹」なのでしょうが、信ずる者一同が家族というイメージもよいものです。名が与えられるというのは一語の動詞でありますが、神が名を与えるというのは絶大なる恵みです。その結びつきは、もうただものではありません。私たちは、神を父と呼び、神から名を呼ばれるという、すばらしい関係の中にあるのです。
 
この祈りには、多くの語彙が登場し、なめらかにつながっています。教会で用いられるに相応しい言い回しがまとめられているのかもしれません。後の使徒信条も、やはり一度きりの言明のたに短い割には語彙が豊かです。神の霊が力強く働き、衰える外なる人でなく、内なる人を強くしてくださるように。パウロの手紙の中にある語が効果的に引き出されてきます。パウロを偽装するため、と意地悪に取らずに、教会に適切な祈りを完成しようという意気込みを見ましょう。
 
心の内にキリストを住まわせよ、と祈りが続きます。では私たちの内に、キリストは住んでいるでしょうか。ここで私たちは、自分と教会とを思い浮かべることにしましょう。そして、このエフェソ書の祈りの一つひとつを、私たちは受けているのだということを意識しましょう。愛に根差し、愛に立っているでしょうか。キリストの愛のすばらしさを理解しているでしょうか。すべてを超えた神の豊かさの中にいるでしょうか。
 
いまの自分はどのようなチャレンジを受けていますか。それなしで、何が信仰でしょう。何が聖書でしょう。私たちは、評論家になってはいけません。聖書を高いところから見渡して、自分はつねにその例外に置いて安全な場所から眺めているのではいけません。まさにいま、神からの言葉が向けられているのです。間違いなく、この私へ。
 
それを受けるならば、神の豊かな恵みが満ち満ちてきます。それでいて神は私たちのすべてを超えているのですから、私たちの目に見える範囲で事が決するのではありません。私たちの思いのすべてを超えて、私たちの気づかない形で、気づかないままに、祈りは叶えられるものなのです。しかも、その神は私たちの内に働いているというのですから、驚きです。それが見えなくても、このように祈ることによって、気づかないうちにも、その恵みの中にいるということができることを喜びたいと思います。


Takapan
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