時

チア・シード

コヘレト3:1-11 


いまだに謎めいている書の一つ。知恵文学と称されてはいますが、著者も目的も推測の域を出ないようです。それどころか、題たる「コヘレト」さえ、どういう意味であるのか判然とせず、だから新共同訳では原語をカタカナ表記にしたのでした。空しさを前面に押し出し、聖書の中の他の信仰や歴史を扱う書とは一線を画しています。あるいは、思想的に背反しているかのようにさえ感じることがあります。
 
人は何かを努力して求めようとしても無駄なことだ、といろいろ溜息をついた上で、この章に入ると、突然「時」について告げ始めます。14もの対比を以て、神の定めた時を見定めようとするところから始まります。何事にも「時」がある、というとき、それはフランシスコ会訳では「時期」としており、英語でもseasonと説明しているものがあり、参考になります。
 
この後対比の中で現れる「時」は語が異なります。具合の悪いことに、新共同訳ではその後「時宜にかなうように」神が創造したことを記していますが、この「時宜」は先の「時」と同じ語です。フランシスコ会訳は、ここは同じ「時」と訳しており、訳書はかくあるべきだと考えます。同じ原語を、むやみに訳詞変えることは、読書に誤解を与えかねません。
 
福音書や新約聖書の書簡においても、時を表す語はいくつかの種類がありました。とくに、一定の期間や時代を表すようなものと、神が定めた特定の特異な時とは、捉えるうえでもよく区別しておいた方がよいと考えられています。旧約のこの場面でも、「時」とあるのは、特定のチャンスを示していると思われます。日本語にはこうした意味を「刻」と表す方法もあります。
 
14の具体的な対比は、いまの私たちの文化感覚からすると理解しにくいものがあるでしょう。とくに、石を放つ・集めるというのは、見当がつけにくいものの一つです。フランシスコ会訳の注釈には、これについての興味深い説が挙げられており、興味深い内容となっています。しかし概ねそれぞれ生き生きとした例であり、しかもシンプルな対比なので、読者に豊かなイメージを与えることができると言えるでしょう。
 
時間はただ一様に流れているのではない。何かしら特定の、特殊な刻があるのだ、と読者は感じ取ることができます。この刻なるものの存在を、私たちが認識できるのはどうしてでしょう。なかなかいまが大切な刻であるとは気づきにくいものです。だから、これは神が人に知らせることになるのだ、という見解がここにあります。人が決めるものでなく、神が主体として定める。だから、人は自分が救われたいと願っても望みの通りにはならず、神がイニシアティブをとった中で、人を救うことになるのです。
 
人がいくら努力を重ねても、この刻をつくることはできません。人には、自分に与えられる刻や時間について、どうしようもないということがあるのです。しかしこの刻のつながる先に、永遠というものに思いを寄せることは許されます。永遠なるものへの憧憬があるのは、神の時というものを感じたときです。但し、神の業やこの永遠というものについて、人間がこれを把握してしまうことはできません。
 
永遠を思う心すら、神からのプレゼントであると知りましょう。そのような視点に立ちましょう。しかし人は、自分でその永遠を実現することはできません。つまりは、人が神になることはできないからです。これだけは弁えておくべきです。逆に、神が人になることはありうるでしょう。知恵では神の全貌は捉えられませんが、神の側から顕してくださった出来事の中に、永遠への招きがあることには、気づいておきたいものです。


Takapan
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