開いておくこと

チア・シード

申命記24:17-22   


寄留者・孤児・寡婦。この並びが、この短い箇所にほぼ4つもあります。申命記律法は、手際よくまとめられていますが、この近辺には何かしら弱い立場を余儀なくさせられた人々を支援するはたらきが記されています。その弱者の代表がこうした人々です。奴隷が入っていないという点など、ツッコミどころはありますが、ひとまずは市民として認められている中での弱者ということで、ご容赦戴きましょう。
 
事実、そこへの支援は公的にはなかったのでしょう。関与しない人にとっては、彼らは不運な星の下に生まれたと説明して、良心の呵責から逃れていたのかもしれません。しかし当人の自己責任の問題でもないわけです。人情的には、そういう境遇の人にこそ、神が助けを与えてほしいものです。誰の目から見ても、苦労の中にあり、世間一般に見放され惨めな生活を強いられていることは明らかであったと思われるのです。
 
イスラエルとユダの王の支配が続く歴史の中で、この申命記は書き記されたと研究者たちは指摘します。だとすると、王国の中での弱者の扱われ方がここに露呈していると言うことができます。果たして律法が機能していたのかどうかは不明ですが、律法として提示されねばならない事態がそこにあった、ということは確かです。
 
貧しい人々はどうやって生きていくのでしょうか。落ち穂拾い、油や木の実の類も、なんとか入手できるのでなければなりませんでした。申命記記者の論拠はすべて簡潔です。かつてエジプトの国で奴隷であった歴史を思い起こせというのです。ただそれだけ。出自を知るならば、心は決まると突き放しています。これはもはや、律法ではありません。神が人の心へ呼びかけているだけのことです。
 
律法を守るという、人間からの行為のようであるものが、実のところ神からの問いかけに基づいていて、それ故にこそこの規定が存在します。行って、そのようにせよ、と主が呼びかけます。殊更に親切にせよ、と命じているのではありません。ただ、閉ざさず、心を開け、可能性を開いておけ、というだけです。拒まず、妨げないのであればよい。立ち上がるのは当人の力です。いえ、神が助けるという信頼であってもよいのです。
 
ところで、現代の私たちにとって、この規定はどのように受け止めたらよいでしょうか。福祉は必要との認識が社会にあり、しかもそれは神の規定とはさしあたり無関係に機能しています。かつて公的には支えなかった弱者を支えていたのが、法によらない庶民だとすると、いまは公的機関があるために、一人ひとりは支援に対して無関心になりかねない状況にあるのではないでしょうか。
 
もちろん、災害時にはそんなことはない、また下町には人情がある、それもまた本当です。人を助けるということについては、何かしら誰かが心通わせ、犠牲を払っているのは確かでしょう。むしろ、人の働きの背後に神を見るクリスチャンが、もしもお高く止まり他人事だとしているようなことがあるなら、たちどころにファリサイ派に向けられたイエスの言葉が及ぶことでしょう。教会は、開かれているでしょうか。私の心は、開かれているでしょうか。そして、実は自分こそ、寄留者であり孤児であり寡婦であるのだ、ということに、気づいていたでしょうか。


Takapan
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