そうでなくても

チア・シード

ダニエル3:8-18

ダニエル

ダニエル書は、旧約聖書の巻の中でも後期に属すると言われます。バビロニア帝国からペルシア帝国へとまたがる歴史を背景に描かれる内容は、預言書というよりも、黙示録のような様相をも帯びてくるのですが、中には物語として非常に印象的なものがいくつも含まれています。多彩な側面をもつ書であると言えるでしょう。今回の箇所も有名で、また子どもにもよく聞かせる物語です。
 
ここに登場するのはダニエルその人よりも、共に育った元少年たち、信仰を同じくする強い意志をもつ信仰のメンバーであり、また帝国で高い地位に就くことのできた有能な人物たち3人でした。ネブカドネツァル王の設置した金の像を拝めというお触れに従わなかったが故に、命を奪われそうになる、という話です。
 
このあたり、ダニエル書の中でも錯綜している印象があります。アラム語として遺されている部分です。旧約聖書の中でも最も後期に書かれたのではないかと見られていますが、ユダヤ人の言語にも変化が見られているのでしょうか。私たちはダニエルを預言書の中に置きますが、そうしない見方もありますし、後半は黙示的な叙述になっていきます。それでもまた、子どもにも理解しやすいような物語がいくつも盛り込まれ、今回もそのうちの一つを読んだこととなります。
 
ダニエル本人ではなく、共に育てられ賢かったのか、バビロニア帝国で重要なポストで用いられた友だち3人の体験談です。ユダヤ人なのに高官となったことが妬まれたのではないかとも思われますが、今回はネブカドネツァル王の怒りを買いました。器楽の音とともに金の像にひれ伏し拝めという王の命令に背いている、との密告を聞いたからです。違反者は燃え盛る炉に投げ込まれることになっていました。
 
王は、3人を呼び出し、それはまことかと問い質します。お前たちの命を決定する権利は王自身がもっているのだから、王の決めた神を拝めと迫るのです。王は、金の像を拝ませようとしますが、どうやら真に拝ませたいのは王自身のことのように見えて仕方がありません。つまり、像を拝まないのが悔しいのではなく、王の命令に従わないことが許せないわけです。私たちも、自分で気づかずして、実は自分自身を神としていることがあるものです。
 
この3人は、王に何か損害を与えたものではありません。ひとに危害を与えたわけでもありません。ただ、この王の自己崇拝に乗らなかったというだけなのです。それは、この王には思いもよらぬ理由でした。それは、死から救う全能の神を信頼していることでした。あらゆる支配から自由であるということはどういうことか、思い知らされます。他人事のように聞こえますか。いえ、会社組織ではこの情景は日常的なものと思われます。パワーハラスメントは組織でなくとも起こります。
 
権力をもつ者、上にある者は、自分の意のままにならない者が部下であることが許せません。しかし、この3人を失うことが政治的に損失であることも気になります。それで、もしいまここで自分の言うことを聞くならば、これまでの嫌疑はなかったものとしよう、とチャンスを与えます。すでにもう法治の概念はここにはありません。これで、命の惜しい相手は、自分に従うはずでした。従いさえすれば、王は満足したのです。が、3人の神への忠実さは、すべての脅しを超えていました。
 
3人は毅然と対応しました。反論するなど、言論での抵抗さえしません。もはやこの王は、理屈で思考できる状態でないことを察知していたのかもしれません。人を見ることはもうなく、彼らの眼差しは、人を超えたところにある神だけに注がれていました。そして堂々と告げます。神は私たちを救う能力がある。実際、救うはずである。だが見た目でたとえそうはならなかったとしても、私たちの信ずるところは一つで変わらない。像や人間を礼拝するような真似はしない。
 
この3人は助かります。しかし、同じ言葉を発したとしても、命を落とした人々が、歴史上には無数にいます。上方から九州まで連れ回され磔にされた人々も、雲仙地獄で拷問に遭い死んでいった人々も、絵踏みをせずして死罪となった人々も。この人々は、神が救わなかったということなのでしょうか。ダニエル書を、そのように読むことだけはしたくありません。燃え盛る怒りの炉にも負けなかったバライソの栄光の中に、彼らは救われたのではなかったでしょうか。いや、私たちの想像ですが。いやいや、私たちの信仰によって。


Takapan
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