アナニアも選ばれ用いられた

チア・シード

使徒9:10-22   


サウロが目指していたダマスコにいたアナニアが、主に選ばれます。「アナニア」とその名を以て呼びかけられました。「ここにおります」という応答は、少年サムエルのように聖書の随所で見られます。この声は、いまも呼び集められる私たちが返すべき主への応対です。原文では「見よ、私、主よ」とあり、これでは日本語にはなりませんが、生々しい息吹が感じられます。
 
主は「立て」と命じています。復活の勢いがあります。そして行動を起こさせようとします。アナニアもまた、新しい生き方へと呼び出されたのです。古い自分に死んだサウロがいるから、そこに命をもたらす大切な役割を言い渡されます。サウロを訪ねよ。「だが見よ、祈っている」と説明されます。サウロはまさに神と語らっているというのです。神と出会った者なのだと告げています。そして、まさにアナニアという名の人物との出会いを待っているというのです。
 
予めこのように主からその計画・筋書きが明らかにされるという経験をもつ人は多くないでしょう。人間の側からの思惑や予定を考え、その実現を神に願うことはありがちですが、神から先に与えられ明かされるというのは、大いなる恵みです。ただそれは、神により用いられるということでもあります。土の器に過ぎぬ人間が、神の器となるのです。
 
サウロと神、その神とアナニアとをつなぐものは、いまは幻です。しかしこれが間もなく現実となります。そこに真実が生まれます。この出会いが、世界宣教となっていく壮大な物語がここから始まるのです。しかしアナニアにいま見えているのは、サウロの凶暴な敵性でした。無理もありません。しかし主は「行け」と言います。「立って、行け」です。これが命令のすべてです。
 
その男は、主の名を運ぶ器となるというのです。そのためにはずいぶんと苦しむことになります。しかしこれは主の選びです。同時に選ばれたアナニアもこの命令に従います。サウロを兄弟と呼ぶように、主に従います。なんと大胆に心を替えたものでしょう。サウロは見えるようになり、ルカ好みの聖霊の力をもアナニアは口にします。
 
サウロは復活します。水により溺死し、新しい命に生きるようになります。このとき食事をしたという記事は、地味ですが重要です。ひとは食べることで命を得ます。神の国は食事にて描かれます。共に食事をする者は仲間です。サウロはすぐに宣教を始めています。これも注目に値します。イエスがメシアである、との宣言は、ペトロに次ぐものですが、用いられたアナニアがきっとサウロをバックアップしていたことでしょう。一弟子に過ぎなかったアナニアもまたきっと、サウロと共に生かされる役割を担ったことでしょう。


Takapan
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