宦官の涙が喜びの旅へかわる

チア・シード

使徒8:26-39

使徒

使徒フィリポは、天使からの声を受けたようです。エルサレムからガザへ下る、つまりまさに山から下りていく道を歩めというのです。そこは人通りが少ない、寂しい道でした。あるいは、荒れ果てているという表現の訳もあります。何が荒れ果てて寂しいのでしょう。ルカは、当時の地理的特徴を伝えたいからこのようなフレーズを入れたのでしょうか。さして重要でもなさそうな、こんなことをどうしてここに置いたのでしょう。
 
フィリポとの出会いの単なる演出なのかもしれません。しかし、この荒廃した道は、登場する宦官の心そのものを物語っていたのではないでしょうか。そこに心寂しい男がいたというのです。エチオピアは歴史ある王国で、早くから文明を栄えさせていたであろう伝統国です。その女王の高官ということは、その国で最も豊かな経済をもち、また地位にあったのではないでしょうか。どこが寂しいのでしょう。
 
女王の全財産の管理をしていたくらい信用され、出世していたこの人物。馬車を操り、遙か彼方から、エルサレムに礼拝に来ていたといいます。とんでもなく贅沢なことです。しかもイザヤ書の巻物まで手にしているではありませんか。いま熱中して朗読していたということは、ひょっとしてこのエルサレムへの礼拝で買い求めたものでしょうか。相当に高価なもののはずです。こんな豊かな生活をしていた者に、荒廃とか寂しいとかいう評価は、無理なことのように思われます。
 
彼は、宦官でした。男性性器を切断し、いわば去勢措置を施した男です。何のためにかというと、基本的には奴隷とするためです。ある地域では、捕獲して奴隷にした適地の男をそのようにしました。去勢することで死ぬ率も高かったと思われますが、そうまでして能力をなくすことで、女性に対して安全な存在に変えることができます。貴族の女性に使える奴隷として役立ちます。奴隷として能力があれば、経済を任されたり、重用されたりすることもありました。
 
そもそも身分の低い男は、結婚の望みもない場合があり、それなら、と自ら去勢して、宦官登用の道を求めることもありました。中国が有名ですが、科挙という苛酷な試験を勝ち抜いてのみ登用される地位に等しい出世が可能なのが、宦官でした。この中東文化あるいはアフリカ文化の中でのことはよく知りませんし、この男がどういう過程で宦官になったのかはますます不明ですが、たとえば子孫を遺すことができず、家族をつくることもできません。人生について思うとき、何かしら空しいものを覚えても無理はない、と想像できないでしょうか。ここに宦官の涙を見ます。
 
イスラエルの神を信じていたのでしょうか。分かりません。ただ、礼拝に来たということは、何かしら感ずるところがあったからでしょう。特別に許可を得て、はるばる旅に来たのでしょうか。しかし、たとえエルサレムに礼拝に来ても、彼は神殿の中に進めなかったに違いありません。まず、異邦人です。律法からして、「異邦人の庭」までがせいぜいのところです。割礼でもしていれば、それを越えることもできたでしょうが、彼は宦官でした。申命記では、陰茎の切断された者は主の会衆に加われないという規定もありました。神の民になることは不可能でした。
 
何か預言の中に、救いは見当たらないだろうか。男は、数ある聖書の中でも、イザヤ書を求めました。これは神の導きでした。それを朗読する声を聞いて、主の使徒フィリポと出会うことになり、そのイザヤ書の苦難の僕について解き明かしを得る機会を与えられたのですから。イエスを知り、宦官は光を得ました。寂しい、沈んでいた心は、求めるところのものを与えられました。洗礼を受け、喜びにあふれて旅を続けることとなりました。当時「宗教」という言葉はなく「道」と呼ばれていましたから、これまでまさに「寂しい道」であったものが、「喜びの旅」に変わったのです。地上生涯を歩む人生の旅が喜びに彩られました。
 
パウロはガラテヤ書の中で、吠えていました。あまりにも割礼が必要だなどという、けしからん考えに揺らぎ、あるいは攻め入られているガラテヤの人々に向けて、そんなに割礼がしたいのなら、いっそ根元から去勢してしまえ、と口汚く罵っています'5:12)。一方イエスは、「宦官として母から生まれた者があり,人々により宦官にされた者がある.また,天の御国のゆえに自分から宦官になった者がいる」というようなことを述べています(マタイ19:12)。ぼやかした訳が普通ですが、指しているのは宦官なのでした。
 
この希望の言葉に出会うことは、このエチオピア人宦官にはできなかったかもしれません。しかし、フィリポが、まるで復活のイエスのように見えなくなった後も、遺された希望の光の中で、続いてイザヤ書を朗読したであろうことは容易に想像できます。そのときに、苦難の僕の少し先のところ(56:3-5)で、次の希望の言葉に出会い、涙したのではないでしょうか。「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる 宦官が、わたしの安息日を常に守り わたしの望むことを選び わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 息子、娘を持つにまさる記念の名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」


Takapan
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