怯まぬ証人として語る命の言葉

チア・シード

使徒5:12-32   


信じる者たちがひとつになっていたことを、ルカはよく指摘します。表向きローマ高官に弁明の如く綴った文書の形式をとる時、信徒の間に分裂があるのは印象がよくありません。それでもパウロとバルナバとの諍いやエルサレム教会の意見の相違なども描いているわけですが、基本的なひとつなのだというイメージは与えられているかと思います。
 
信徒や教会がひとつであったということは、逆に「ほかの者」が仲間に加わろうとしないという説明が必要になります。ユダヤ教の指導者などのことかと思われますが明言はされていません。また、民衆はこれとは別格で、キリストの弟子たちを認証していたような書きぶりです。その中から主を信じる者が増えていったとしています。
 
死刑囚イエスの弟子たちのグループです。もっと危険性を感じて当然であったでしょうに、民衆は何を期待できたのでしょうか。ペトロの影すら慕い癒しを求め、群衆は集まってきます。癒しは実際に与えられたとも書かれています。信仰の信実は、人々に伝わっていた、安全で平和な宗教なのだとアピールしているのかもしれません。
 
権力側からこの仲間に加わろうとか近づこうとかはしなかったし、あれほどイエスの名を出すなと脅したのに懲りないのか、とさらなる圧力をかけてきました。今度は牢屋にぶちこみました。誰を捕まえたのかは明らかにされていません。ペトロやヨハネでしたら、その名を記したに違いありません。
 
天使が牢を開いたことは書かれてありますが、詳細を描いてはいません。しかも脱獄したのに民衆の石が恐いからと権力者はせいぜい尋問するくらいしかできないなど、弱腰です。呼び出された中にはペトロもいました。代表者ペトロは、人にでなく神に従うことが道理だと説明します。木に架けられて呪いを受けたイエスは、あなたがたのせいだと権力者が言われたのが一番面白くないのかもしれません。
 
イエスはメシアであるかどうか、そこもユダヤ教側からすれば許せなかったことでしょうが、罪ありと突きつけられることは耐えられなかったことでしょう。それは私たちもそうだし、受け容れない一般の人々の感情もそういうところではないかと思われます。
 
ペトロはこのキリストの出来事の証人であり、神の霊も味方であると宣言したので、場は騒然となります。神が復活させたイエスは、生きている。神の霊がはたらいている。このことを知らせるメッセージは、命の言葉となります。人の顔色を見て態度を変えるのではなく、常に同じ真理を告げ、証言する者でありたいと、私は願います。命をもたらす言葉を語りたい、と。


Takapan
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