もつことからあることへ

チア・シード

使徒4:32-37   


ペトロをはじめ弟子たちがイエスの名の下に活動を始めます。当局の手入れもありますが、信徒たちは却ってそれで結束します。この時の共同体の姿を、ルカは書き留めます。強調したいのは、一つである、ということです。ローマ高官に献げるという建前からして、まともりのある平和な集団である印象を与える必要からそう言われたのかもしれません。
 
現代人はこの描写の中に、どうしても原始共産制なるものを見てしまいます。その言葉を用いた瞬間、私たちの脳裏には一定のイメージが固定されていくことになります。しかしそれは恐らくルカの視野と比べて歪んでいるものでしょう。安易に原題の言葉でラベルを貼ることはここでは控えましょう。
 
信者と訳されていますが、信頼し合っている人々というニュアンスも感じ取りたいと思います。だったら、一つであることも成立するでしょう。だからまた、この後に、アナニアとサフィラが弾かれることになったのでしょう。持ち物は神からの恵みなのです。フロムはしきりに、「もつ」ことから「ある」ことへの転換を提言しました。「もつ」ことから解放され「ある」ことへ目が開かれるように移った人々の様子を、ルカはよく捉えているように私には見えます。
 
「もつ」ことは否まれます。しかし私たちには物が必要です。日本語訳には出ませんが、物は共通で「ある」のだったとルカの筆は記します。共に「持っていた」とは記していないのです。すると、必要を事欠く者はいなかったといいます。主の平安がそこにあれば、不足することは何もないというのです。
 
ここに使われている言葉は、一般の人に分かる言葉であり、論理です。しかし、信仰の奥義の視座から見れば、分かる人にだけ通じ伝わるものがそこに隠れているような気がします。献金の分配の有様が簡潔に描かれていて、理想化した創作だと評する人もいます。では何故創作したのでしょう。ローマ側に良い印象を与えるためかもしれませんが、仲間には別のメッセージとして伝わるものがあったからではないでしょうか。つまり、ひとは「もつ」ことから自由になることで、分け与えられる恵みの中に「ある」ことを経験することができるのです。
 
バルナバが突然詳しく紹介されますが、これは後にパウロと行動を共にする人物の登場であって、ちょっとした伏線になっているものと思われます。好人物であったこと、レビ族という由緒がいることなどから、パウロの同伴者として相応しかったことが、「もつ」ことから解放されていた模範として添えられているように見えます。ただし、「慰めの子」という意味の背景はよく分からないという声があります。
 
さて、この共同体の代表格としての使徒と称される面々については、神の力が発揮されていたと言い、イエスの復活を証しすることにおいて弛みなかったことが記録されています。新共同訳は、人々から好意云々と訳されていますが、原文は恐らく、大いなる恵みが皆の上にあった、という文です。そうです。「持たれていた」のではなく、「あった」のです。


Takapan
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