若者と説教

チア・シード

テモテ二4:1-4

テモテ

あのパウロ本人の手によるとは思い難い書簡ですが、力強く、生まれて間もない教会組織が整えられるように努め、新たに世代を背負う若者を教育するための知恵が綴られています。同時にそれは、切迫した終末意識が薄らいだとも見なされますが、そのどちらの意味においても、教会は危機の中にありました。つまり、信仰の継承への危機と、教義の軌道修正の危機です。
 
いま、教会が年老いようとしています。かつての常識がそのままでは通用しなくなります。それなのに、年寄りが自分の経験をこそ絶対視して唯一のものであるかのように抑え込むと、新たな命は芽生えません。すべて旧いのが良いのであて新しいものはだめだと決める、そんな傾向が、年代が上がる者の支配する組織では起こりがちです。しかしそれでは、若者は近づけません。若者を年寄りに合わせるようにさせる論理が、正しいとは限りません。もちろん、若者のほうこそが正しいのだ、という論理も成立しませんが。
 
これが書かれた当時、世の終わりが意識されていたとなると、いまの私たちも、むしろ余計にそれが意識されなければならないと思われるのに、現実はそのような終末は思い描かれなくなってきました。却って想像力あるいは不安な心理がそれに注目し、アニメや映画ではしきりに終末ものが描かれます。しかし、それを真摯に受け止めるというのは、うろたえることではなくて、神の言葉を伝える機会なのである、と手紙は主張します。
 
神の言葉とはロゴスです。これを説教するのです。私は、この説教というジャンルの大切さを改めて感じています。福音が歴史であるとか物語であるとか、そんな神学議論は、あまりにも福音に対してよそよそしく振る舞うようになっていきます。説教は、神の心を、管となって運ぶ者が人々に届けて、神との出会いを経験する時であり場であります。いのちが分け与えられていく場です。そして与えられたいのちは、受けた人が次の生き方を担い歩んでいくという形で露わになっていきます。
 
だから、神の思いが語り続けられなくてはならないのです。どんな時でもそうなのです。なかなか受け容れてもらえない、と語る側が落胆することがあることでしょう。しかし、見える情況に左右される必要はありません。人々は、耳に心地よい作り話に流されていくものです。空想話にどうしてこうも易々と身を任すのか、不思議でなりません。いまの時代も、思いつきの「霊」世界の物語に魂が引きずられていってしまうのが残念です。
 
そこで書簡は「しかしあなたは」と矛先を向けます。あなたは、慎み、務めを全うしなさい。この「あなた」を、自分に向けてのメッセージであるとして受け止めたでしょうか。若い世代へ伝えると言いながら、ベテランであってもこれを自分への神からのチャレンジだと受け止めていることができることを押さえておきます。そして、教会という仲間ですから、互いに助け合いつつ、このまたとないひとときに、祈り力を合わせること、つまりは信頼し合うという関係を確かなものにしたいものです。そこに、若者だ年寄りだと差別することなく、同じ福音に生きる共同体が育つ場が与えられるように思えてなりません。


Takapan
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