主が告げるダビデへの約束

チア・シード

サムエル二7:1-17 

イザヤ

イスラエル最高の王とくれば、ダビデの名をおいてほかにはありますまい。サムエル記上下巻は、このダビデを軸に描かれます。中でもこの7章は、クライマックスであると考えられます。ここで、神が祝福したダビデの王座というものについて、明確に告げられているからです。すでに神の箱がエルサレムに運び入れられました。ダビデは王宮に住まいます。ここの平和という意味のシャロームの名を含む都エルサレムが堂々と始まることになるのです。   預言者はナタン。後に、ダビデが姦淫の罪を犯すときにそれを神の名の前に暴いた預言者です。あまり表に出ませんが、その意味でも実に大きな役割を聖書の中で果たしていると言えるでしょう。すでにサムエルは世を去りました。イスラエルに最初の王を立て、しかしそれに失敗した後、ダビデという本物を見出した、最後の士師であり最初の預言者であるとも言える人でした。そのダビデの後見となったかのような預言者ナタンについては多くは知られていませんが、ダビデを霊的に導き、軌道修正をすることのできた人でした。
 
ダビデ王は、自分が立派な王宮に住んでいることについて、呵責を覚えていました。レバノン杉を用いた家というのは、当地では最高の贅沢だったのです。その背後で、神を迎える神殿はまだありませんでした。かつての出エジプト以来の天幕の中に、主の座が設けられていたに過ぎません。このことをナタンに相談したところ、ナタンはさしあたり、当たり障りのない返答をします。
 
しかしナタンの上に、主が言葉を投げかけます。家などいらない、と。後にダビデの子ソロモンの時には断らなかったのに、ダビデに対しては主は不要だとその求めをはねつけたのです。それは、ダビデが多くの血を流したからだ、という建前もありますが、ダビデよ、あなたが何かをしようというのか、と反論します。そうではない、わたしが、つまり主なる神がするのだ、と立て続けにぶつけてきます。
 
神は、ダビデを選び、一方的に恵みを与えました。いつも共にいる、いつでも助けてきたではないか、と告げます。すべて、神が主語です。敵を破り、平和を与え、あなたに名を与える。イスラエルの民をひとつ所に植え付け、もう不安を抱く必要もなくなる。神がダビデの家を安泰にさせ、揺るぎない王国を備える。サウルに対するように、慈しみを取り去りはしない。王座は永遠である。すべて、神が主語なのです。
 
ダビデの王座を約束する、主による賛歌のようなものです。神が一方的にダビデを祝福し、確かな言葉を与えました。神の言葉はそのまま実現するものです。だからこそ神なのです。そのため、後にダビデの子からイエス・キリストが現れます。本当に、永遠の救いと王座を与えたのです。そのキリストが、いまの私たちをも救い、平安を与えました。
 
だのに、どうして私たちは、神にお返しをしたいなどという、勘違いをするのでしょう。自分が贅沢だから神にもその贅沢をお返ししたいとか、申し訳ないとか、何かしなければという、けちな考えを、恰も人間に対するように、神にもつのでしょう。呵責でしょうか。それとも、神を人間と同等の相手としてしか見ていないからでしょうか。
 
イエス・キリストの犠牲は果てしないものです。しかし、それはただ受ければよい救いです。すべては、神が主語となって引き受け、実行した物語です。神には何でもできるのです。ダビデに、まるで「黙っていろ」と言わんばかりに、溢れるばかりの神の恵みをもたらすこの約束が、イスラエル王国のために最大の宣言であるとすれば、新約の時代の約束においても、そのスピリットが生きていると思われます。この言葉を、すべてそのままナタンはダビデに伝えました。すべてそのまま、私たちは受け取ればよいのです。そして、ダビデのように、片時も主を見上げることから離れず、無心で主だけを頼ればよいのです。


Takapan
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