肉の状態を抜けて和解を受けよう

チア・シード

コリント二5:16-19   


信において生きる。見えるものだけに縛られずに、自由をもち、神の力の内に生きてゆくことができるにはどうすればよいでしょう。肉という神ならぬものと結びつき、それをのみ原理としてはなりません。あるいはまた、神を原理とすることから外れてなお自分は神に従っているんだぞと勘違いして豪語するのは、滅びの道を突き進むことになってしまうでしょう。
 
そこから解き放たれるには、神との和解が必要ですとパウロは考えています。キリストなら知っているさ、俺は信じているんだ、と口にする者を、パウロはそのままには信用しません。コリント教会の人々が現にそうなっているからです。顔だけ信仰者ぶっているに過ぎない、というような書き方を実はパウロはしています。
 
感覚的にキリストを知ったなどと言っても、これからずっとそれだけでよいとは考えてはならないと釘を刺します。16節に「知る」という語が三度登場します。最初のそれは、どちらかというと感覚的な感じ方によるものです。後の二つは、深く認識することです。たとえ深く考えても、神から、上から与え等琉のではない知り方をしてはならない、というのです。
 
ギリシア語はシンプルにこう書かれています。もしも誰かキリストにおけるなら、新創造だ、と。新共同訳におけるカトリックの「結ばれて」は、ついに聖書協会共同訳では外されてしまいました。あまりに狭すぎます。その人は新創造だ、と普通訳しますが、岩波訳が注釈を入れたように、こうした事態は新創造なのだ、と読むのも面白いと思います。
 
肉体と精神を対照させているのではありません。神ならぬものを第一とすることを肉と呼ぶことにしてみましょう。このすりかえを、コリント教会の人々はまだやっているのだが、もうそれを卒業しましょう、ともちかけています。「見よ」も訳出したいものです。新しいものが生じたのだ、と高らかに宣言します。パウロは信仰の道案内をしています。
 
こうしたすべての出来事は、神の側からの働きかけに基づきます。神のほうから、和解をもちかけてきたのです。神が私たちに向けて、和解に応じないかと呼びかけ、自ら痛みを背負ってくれたのです。それがキリストの救いでした。決して人間たちにその罪の責任を負わせるような算定を出さないと神が言います。パウロがその保険員を務めるのです。


Takapan
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