異文化にもたらす福音

チア・シード

コリント二5:1-10

コリント

私たちの地上の住みか。パウロは、コリント教会に対して、非常な熱意を以てこのことを語ります。その相手は、ユダヤとは文化的背景の違う、コリント教会。ユダヤ人もいたかもしれませんが、風土としてはおおらかで自由な生き方。いまの日本と比べてどうなのだかは分かりませんが、ひとつのイメージにはなるかもしれません。
 
この人生にどういう意味があるのか。そういう問いならば通じるでしょう。今ここに生きている私たちはどういう位置にいるのか。それも議論になるかもしれません。しかしその立つところはまるで違う文化にある人々に、イエス・キリストの救いはどのように伝わるのでしょうか。私たちも戸惑いますが、その戸惑いの先駆者としてのパウロの言葉は大いに聞いてみるべき加地がるでしょう。
 
ギリシアでは肉体を賛美する傾向がありました。オリンピア競技は、全裸で行ったように、肉体の披露でもありました。他方、プラトン思想を継ぐ者は、肉体は魂の牢獄だと受け止めていたし、後のストア派なども、魂の浄化に目を注いだものでした。そのとき肉体は、できるならば脱ぎ捨てたいよけいなものと考えられることもあったと思われます。
 
これは今もあることです。清い生活をウリにする自称キリスト教があります。人の中には、世の中が汚らわしいと思う人もありますから、その心を奪うためには、清さを看板にすると効果的な場合があります。そして、それに賛同した者だけが清くされるので、特権意識も芽生えます。人のその方面の欲望を叶えることができるからです。人の目には、それが唯一正しいことのように見えてしまう場合があるということです。
 
キリスト教も結果的にそれと無縁でないことは明らかです。しかし、それが目標ではありません。似ているように見えるかもしれませんが、キリスト教にとり清さは目標ではなく、結果です。パウロは、肉体を脱ぐということがキリスト教の救いとは関係がない、と言っています。むしろ、キリストを着るのです。肉体をたとえ脱いだとしても、残った魂が汚れていることを痛感しているからです。肉体さえなければ清くなれるという考えは、自分の魂は清いのだからと思い込んでいる傲慢さの裏返しになるわけです。
 
体を伴い生きている限りは私たちは主と重なっているわけではないのでしょうが、それはむしろ信の中を歩んでいる、とも考えられます。体を離れることへの憧れが、パウロにも正直ないわけではないと言いつつも、結局どちらでもよい、拘泥しない、というのがパウロのスタンスのようです。
 
肉体を住みかとして出会うことがらが、将来の裁きに関わるにしても、やはりそれは仮の幕屋のようなものだとパウロは思い描きます。ここにはユダヤの文化が顔を覗かせます。がっちりした建造物が基本のギリシア文化にどのように響くでしょうか。キリストの裁きという言葉が、どのように心を刺すでしょうか。パウロがもたらす言葉が通じているのかどうか、それは分かりません。確かにすべてにわたりギリシア人のようにも語れません。ただ、目に見えるものがすべてではない、というのは、何かしらきっかけになりえたのではないかと私は想像しています。


Takapan
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