奴隷として生きる

チア・シード

テモテ一6:1-2   


同じクリスチャンだからと言って、この地上で奴隷という立場でいるからには、その主人に仕えるという姿勢を崩してはならない。要はこれです。この世の秩序を破壊するような論理を掲げて、キリスト教がアナーキズムに走ることはよくない、と言いたげです。兄弟という言い方でクリスチャンは神の前の平等を掲げますが、直ちに極論に走るべきではない、と。
 
終末思想が薄れてきました。この書簡が書かれた頃には、いまにも再臨が、終末が、という意識が静まってきています。なかなかキリストは来ない。ならば信じる者たちの共同体、教会はこの世界でどう成り立っていくのか。組織的安定を図らなければ、現実に活動をすることができませんし、人の心を惹きつけることもできないでしょう。
 
キリストの弟子である者同士が、この世界では身分の上下関係にあるときには、至って常識的な判断が下されている、と言わざるをえません。その意味では、わざわざ教えとして神のことばを聴くまでもないものであるのかもしれません。私たちは、聖書の中にあたりまえの倫理を求めているのでしょうか。心が洗われたいだけのことなのでしょうか。自分が正しいと安心したいのでしょうか。
 
イエスは様々な譬えを口にしました。そこからまた、パラドキシカルな言動をぶつけ、人々を驚嘆させ、また敵の憎しみを買いました。思うに、時代が下がるにつれ、そしてイエスとの距離が増すにつれ、この「非常識さ」はどんどん弱くなり、薄らいでいるのではないでしょう。どんな宗教でも言うような教えが平然と告げられ、それに慣らされていく私たち。
 
世で生きるのにそれはもちろん正しいことかもしれません。しかし一言一言がショッキングで逆説的ですらあったイエスの教えとその生き方・死に方が、どんどん「まとも」になっていく。それはそれでよいとは思いますが、それでよいとは思えません。
 
現代でも、この奴隷の図式は成立する、というのが私の持論です。会社の奴隷、家庭生活や人間生活で誰かの奴隷になっている姿があります。学校でいじめられている子がいます。奴隷のような生活に悩む人は少なくありません。自ら命を落とす人さえいます。そこに慰めを与えるのだとすれば、この当たり前の教えも役立つと言うことができるでしょう。
 
けれども、ここに挙げられているのは、主人もキリスト者である場合です。いわば加害側がキリスト者であるならまだしも、この世での辛さはそうでない場合が多いものです。主人の側も奴隷を兄弟として扱うべく使命を帯びているわけではないのです。なお、ここでいう「主人」は、神である「主」を言うときとは違う語です。混同の余地はありません。
 
このように、軛の下にある奴隷の身分の人というのは、現代の私たちにもなぞらえることができますが、読み方によっては、その場合の自分の主人という存在を、キリストに見立てることも可能でしょう。私たちは神の僕です。神が主人です。キリストは私たちを友と呼びましたが、それでもなお、仕える道を見失うことはできないのです。

Takapan
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