主が来られるのを待つ

チア・シード

テサロニケ一5:1-11   


主が来られるのを目を覚まして待っていよ。パウロの切迫した叫びが聞こえてくるようです。盗人のように主の日が来るというような比喩は、イエスの言葉の中にもありました。よほそうど広まっており仲間の常識になっていたと思われます。もちろん、目を覚ましていよという教えもイエスの口から出たものとして福音書に繰り返されています。
 
私たちが如何にぼうっと生きているのか、思い知らされます。それを防ぐには、武装が必要だとしています。キリスト教が戦争好きなのか、という議論もありますが、戦いの装備はこのパウロの言及から、エフェソ書へも受け継がれました。私たちが戦うべきは人や国ではなく、目に見えない恐ろしい相手です。その戦いは必要なのです。
 
パウロはここでは勢いで触れているだけなのかもしれませんが、胸には信仰と愛、頭には希望とありますから、パウロの信念たる三本柱である信望愛がちゃんとセットされています。エフェソ書では、頭は同じですが、胸にあるのは正義です。信仰は盾となっており、ほかにも武装が増えています。様々な徳が付け加えられていったと思われます。
 
エフェソ書でも、抵抗するという表現がありますが、こちらのパウロの方でも、身を慎むことこそ必要な手段であることが強調されていますから、ここはやはり防御に徹しているものと見て差し支えないでしょう。エリシャがアラム軍の目を眩ませて退散させた時のように、身を守るためには相手の目が見えないこと、こちらは見えていることが必要なのでしょう。
 
私たちは暗闇にいるのではありません。光の中にいます。光をもっており、主の日もこの光の中にこそ現れます。目を覚ましているならば、昼であるはずです。たとえ睡眠をとっていても、そこは明るいのです。夜のない天の都を幻の中にもち、そこで主と共に永遠に生きることを望み、知っています。私たちの頭はこの救いの希望がつねにあるのです。
 
互いに励まし合い、高め合うことを、日々営むのは当然です。光の中なのですから。そうすると私たちは何も恐れることはありません。主が来られるのを目を覚まして待ち望むのです。いま私たちがクリスマスを迎えようとするとき、それを過去の回想とするだけではもったいない。主を待ち望む我らは、クリスマスの出来事の中に力づけられるに違いありません。


Takapan
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