ダビデの小石

チア・シード

サムエル一17:41-49 


子どもたちに希望を与える物語として教会学校では定番とされるのですが、考えてみれば残酷な話です。この直後にダビデはゴリアトの首を切り落とします。将軍シセラがヤエルに殺されるシーンも酷いもの。血なまぐさい描写を、慣れたクリスチャンは旧約時代にいたかのように、なんとも思わなくなりますが、世間ではこれはひどく残虐なものとして聞き取るのです。こうした配慮を、教会の中にいる者はつい忘れがちです。
 
いつしか、読み取った意味だけしか心に映らなくなるからですが、弱く小さな者が巨大で威張る敵をやっつける、という図式が、ユダヤ人には猛烈に喜ばしいのです。イスラエルの民がその弱い者として虐げに遭ってきた歴史があるからです。ついにイスラエル人は、巨大帝国を築くことはありませんでしたが、しかし精神的には巨大な存在になっていると言えるかもしれません。
 
宿敵ペリシテ人は、当時のイスラエル部族にとり強大な壁でした。後のアッシリアやバビロニア帝国ほどの大きさはありませんが、どうしても勝てない敵として、鉄器を操るペリシテの民は脅威であり、イスラエルは困り果てていました。ゴリアトという名はこの物語では二度出てくるだけで、他は27回も「ペリシテ人」と書かれています。他のある場面での巨人の描写が似ていることから、その記事と混ぜ合わさせているのではないか、と見る人もいます。
 
美少年ダビデはこの大男に蔑まされます。これに対してダビデは、剣で来る巨大な相手に堂々と向かい、主の名によって立ち続けます。私たちにこのスピリットはあるでしょうか。主の救いは武器を必要としない、と宣言しているのです。もちろん戦うのはダビデの行為ですが、防御服さえ重くて不要だとするほどのこの丸腰のような姿勢は、私たちにチャレンジを与えないでしょうか。
 
私たちの祈りの中に、この戦いは主のものである、と根底に据えたいものです。すでに敵は我等の手の中にある、と主に依り頼むのです。その者だけが、この戦いは主の戦いだと言うことができます。敵は、この挑発に乗って近づいて来ます。ダビデは専ら主の名と共に応戦に急ぎます。戦いの場に走るのです。戦いから逃げる道もありますが、どうしても戦わなければならないとき、その場に走るダビデの姿を考えましょう。
 
でも、その場面、誰が走るのでしょう。少年ダビデですか。主の名が伴われているのです。名というのは実体を表すと考えられていました。そこには主が走っていると、聖書記者は書いているのではないでしょうか。だから、主の戦いなのです。主が走ります。主が急ぎ、立ち向かいます。だから私たちは祈ります。主よ、来たりませ、と。
 
主が戦いで用いるのは小石です。見た目の大がかりさや勢いだけで戦うのではありません。取るに足らないようなものが、いざという時に用いられます。派手な武器でもないし、戦闘機でもありません。そんなものはいらないのです。投石機から発された小石は、空いての急所を的確に狙い、襲います。そもそも存在しない神々の呪いなんぞを恐れる必要はないのです。あなたのその、なにげない小さなものも、神の武器として用いられます。もしかすると、あなた自身が、その小石であるのかもしれません。


Takapan
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