教会を壊す分派の現代性

チア・シード

コリント一1:10-17   


美しい言葉の挨拶を終えて、コリント教会へ言いたい山ほどの文句がほとばしり始めます。パウロは腹に据えかねたものを、冒頭からもうぶつけます。一つにしろ。一つを語れ。一つの心になれ。つまり、コリント教会にとり真っ先に、そして根本的に言いたいことは、分裂状態を回避しろ、というものでした。
 
この後、様々な側面からコリント教会を叱責しますが、何をするにしても、分裂状態であることの証左となっています。権威的に統率する人がいないと、教会といえどもこのようになるというのでしょうか。分派が起こっていたことが、根本的にまずかったのです。意見の相違というものはあって然るべきでしょう。それが対立要因となると、深刻な事態を呼びかねません。危機が募ります。
 
パウロの耳に入ってきたことをパウロは劇的に再現します。「私はパウロのもの」「アポロのもの」「ケファのもの」果ては「キリストのもの」などと。パウロに属する、パウロ派である、というような意味なのですが、パウロによる再現ですから、果たしてほんとうにこの通りに人々が口走っていたのかどうかは分かりません。しかしだとすると、これは現代の教会にも十分潜んでいる、起こっていることではないか、とも考えられます。
 
前任牧師は良かった。とにかく新任牧師による教会の歴史が始まろうとするとき、必ずごたごたが起こります。それが近いうちに安定して落ち着いていくと、教会も居心地がよくなるのですが、「古い人」はどうしても、先の牧師のやり方に慣れていますから、新たなものに馴染むことができなくなる傾向にあります。さっさと移り変わるのも、浮気なふうに思われて嫌だという心理が働くのかもしれません。
 
一体、キリストとは誰なのでしょう。何をしてくださった方なのでしょう。それと、パウロやアポロやケファとを並べて、それでよいのでしょうか。いったいそれは、どんな信仰をもっていることのなるのでしょう。ここで出された他の人物は、パウロからすれば潜在的に、ライバル意識をもっていた名前であるとも言えます。何かしら、考え方の相違が、これらの人との間にあったことは確かです。
 
また、洗礼を誰が授けたかということもこの分派に関わっている様子が見て取れます。これもまた、現代に尾を引きずっています。問題を起こした牧師により授かった洗礼は無効であるかどうか。古くから議論されていた問題です。確かにいい気持ちはしないでしょう。しかし、原則としては、洗礼は人が授けるものではないのですから、神の導き、神の手によるものとして、何も臆する必要はありません。それが一般的見解です。
 
パウロは、福音とは何か、キリストの十字架とは何であったのかを問いかけます。聖書をいろいろ調べ始めると、蘊蓄めいた知識によって、あれこれと批評するようになる人が確かにいます。実はこんな意味だ、これは何々を表している、と自分が聞きかじったり、思いついたりしたことを、究極の真理のように決定事項として掲げていくのです。あまりに自信たっぷりに口にするものだから、よく分からない人々はそこに権威を感じて、なびいてしまうことが多々あります。しかし、それはごまかしの知恵に過ぎません。少なくともパウロはそのように断言しています。
 
こうしたコリント教会の無様な姿を、愚かなものだといま私たちは嗤っていられるのかどうか、そこが重要です。私たちにも同様に突きつけられているとしなければ、聖書を読んだことにはなりません。それに気づかないことが、よけいに深刻な事態を招きます。そうなると、コリント教会以上に惨めなものとなります。特にプロテスタントの各派は、各自が祭司となり、各派が教皇となりがちなので、これを他人事と見ると、改めようがなくなってしまいます。努々自らへの警戒を怠ることなかれ。


Takapan
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